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第586話 紙片

斜陽街二番街。レンタルビデオ屋。

店主が怖がりなのにホラーのビデオしか置かない、

そんなレンタルビデオ屋だ。


今日はレンタルビデオ屋に、

廃ビルに住んでいる、詩人が来ていた。

詩人は、いつも焦りながら詩を書いている。

時間に追いかけられているのか、

それとも別の理由なのか。

とにかくいつも焦っている。


彼らが共通するところは、

うまくは話せないというところ。

気の利いたことがうまく言えないと、彼ら自身は思っている。

例えばなぐさめだったり、

例えばほめ言葉だったり、

そんな言葉がとっさに出てこないと、

彼らはいつも思っている。


今日はレンタルビデオ屋の一角で、

彼らは茶を飲んでいる。

のんびりと茶をすすり、

ポツリポツリと最近のことを話す。

焦りもないし、気の利いたことをいう必要もない。

こういう時間を、彼らは気に入っている。

こういう時間だけじゃ生きていけないことも知っている。

だから、ここの言葉は、彼らにとって大切な言葉だ。


詩人はポケットからメモを取り出し、

思いついたことをメモしようとする。

それでも、ひらめいたことや、発した言葉が、

紙片に書こうというときには、

もう変質してしまっていて、

まったく違うものになってしまっている。

大切な時間を、たまには残しておきたいのに、

言葉は変わり続けていて、

少ない言葉すら残せない。


「こまりましたね」

「どうしました?」

「メモを取ろうとしたのですが、言葉が生きていて、メモにすら残りません」

「そうですか」

レンタルビデオ屋も、感覚はわかるらしい。

「楽しい時間のあった記録すら、残りませんね」

詩人は少し残念そうに。

「また、楽しい時間があればいいのですよ」

レンタルビデオ屋は言う。

「また、この店でお茶を飲みましょう。それでいいのです」


詩人はうなずく。

言葉が残っても残らなくても。

楽しい時間はあったのだから。

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