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第53話

 俺は山本アキヲとして生まれた瞬間から、異世界の記憶を持っていた。

 異世界で俺は死に、死んだ後とくに神様から『お前を転生させてやる』とか言われた記憶は全くないのだが、なぜかこの世界に誕生した。

 生まれてすぐに自分は転生者なのだと、直感的に理解した。

 理解はしたがここがどこだかは、全くわからなかった。

 違う国なのか、あるいは違う星か。それとも未来なのだろうか、過去に戻るとは考えにくいし。なによりこの世界には前世で存在しなかった自動機械がそこら中に氾濫していた。

 すなわちここは俺のいた世界とは違う別の世界——〝現代日本〟——そう理解した。

 鮮明な過去の記憶と明快な思考能力を持ちながら、俺は赤ん坊を演じるしかなかった。

 異世界の言語と魔法の呪文に慣れきった俺の頭に日本語がなかなか入ってこなかったせいもあって、俺の演じる赤ん坊はなかなかいい芝居をしたと思う。

 そうして〝日本人の山本アキヲ〟として生き、育っていくうちに、異世界の記憶は俺の妄想なのかもしれないと思うようになった。

 小学生の頃、誰かが教室に持ち込んだマンガがきっかけで前世の記憶を共有するみたいなことが流行った。

 俺は、異世界から転生してきた人間が自分の他にもいるのだと思い、本気で行った。自分の記憶を話せば話すほど、前世を持っていたはずの友人たちがどんどん引いていったのを覚えている。

 異世界の魔法や魔物たちの話は物語としては面白がられたが、前世の記憶を持つ彼らの世界観とは全く重ならないらしく、俺はグループからパージされた。

 そもそもそいつらの話してる前世はマンガがベースの作り話だったので、ただの嘘なのだ。

 俺と同じ前世の記憶を持つ者はついぞ現れなかった。

 それからしばらく、俺は真の転生者を探す当てのない心の放浪をすることになるのだが、この話は長い。

 高校生になって、あらゆるネット界隈に自分からアプローチして相手の転生に関する妄想を聞いているうちに、そこに真実は存在しないと悟った。

 聞き上手になったせいでメンヘラ女にやたらウケが良くなってしまい、リアルで会って付き合ったりその場限りのセックスだったり挙げ句に依存されたりしているうち、やっぱ俺も妄想していただけだ、と思うようになった。

 だいたい生まれたときからの記憶を持ってるのだって、後々自ら植えつけた架空の記憶である可能性のほうが高くないか?

 時間というのは過去から未来に向かって流れているようで実は流れてなんていなくて、現在過去未来、このうち実際に存在するのは過去だけで、未来は我々の頭の中にしか存在せず、現在はそれを認識した瞬間に過去になるのであって、しかし脳は現実と架空を厳密に区別することはできないのだから過去の記憶は捏造が十分可能であり現実はいとも簡単に覆るのだ——そんなことを考え、全てを振り切り前世を忘れこの世界で別の人間として生きようと、軍に入ることを決意したのが高三の秋。

 ちょい悪めの同級生から教わったタバコを吸いながら夜空の星々を眺め、


「異世界なんてねえんだよ現実の世界にはよ……」


 と一人で物語の主人公っぽく呟いたりもした。

 文字を覚えた頃から、前世を忘れないように覚えている限りの歴史や出来事を書き綴った『異世界大辞典』も、この際だからと燃やそうとした。

 持ち続けているとこの先ことあるごとに見返しては悶絶しそうだし、適当に捨てて誰かに見られたら恥ずかしいし。

 家の近所にある小高い土手の、十メートルほどの斜面を登るとススキが群生する原っぱがあった。

 そこで、燃やそうと思った。

 ライターで火を点けた『異世界大辞典』の代わりに枯れススキに火がついた。

 ススキは実によく燃える。

 火を消そうと奮闘するも、あっというまに燃え広がった。

 近くの工事現場の作業員が駆けつけ、消火器で火を消さなければニュースになったかもしれない。

 俺は、逃げた。

 『異世界大辞典』を置いたまま。

 痛恨のミスだったが、取りにも戻れない。

 消防が出動したらしい、というのを知ってますます現場に戻れなかった。

 そこから足がついて火を点けたのがバレるんじゃないかと数日おどおどして過ごした。

 もし読まれたとしても、俺を特定できるような、俺に繋がる情報は書いてなかったはず。

 あの作業着のおじさんたちも、俺をはっきりとは見ていなかったと思う。

 一週間がたち、二週間が過ぎた。

 毎朝テレビやネットをチェックしていたが、ニュースにはなっていない。

 今考えれば地方の町外れの空き地のススキがちょっと燃えたくらいでニュースになんかなりようがないのだ。

 しかし当時の俺にはそれがわからない。

 覚悟してやっと土手を見に行ったときには、一ヶ月が過ぎていた。

 焼け跡は残っていたが『異世界大辞典』はなかった。

 どんなに探してもなかった。

 灰になったと信じたい。

 このひと月、雨も降ったし風も吹いた。

 炭化した『異世界大辞典』は粉々になって飛び散り、空を舞い、地面に染みていったのだ。

 そう考えることにした。


 ——異世界のことは忘れよう。


 いま思うと家庭内の問題を忘れるための逃避先が書くことだったのかもしれない。

 俺は軍に入る。

 もう異世界なんて必要ないのだ。

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