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第65話

「マナは、あるんだ。ここにも。ここにも」


 アーデンは俺の胸にしがみついたまま、小さな手をくうに伸ばして、まるでそこにマナの塊があるかのごとく何かを掴むような仕草をした。


「マナが……ある、だって?」


 わからない。

 だったら今のアーデンの呪文で魔法が発動してるはず。


「呪文が伝わってない。それだけのことなのだ」

「伝わってないって?」

「空気が違えば音の伝わり方も変わるということだ」


 魔法は、魔素マナと呼ばれるエネルギーを呪文によって制御する技術だ。

 呪文にマナが呼応し、マナが震動して、マナが配列を変え、魔法が発動する。

 つまり……?


「だめだまったくわからん!」


 俺は、わかった! みたいに言ったが本当にわからなかった。


「まーようするに呪文がマナにうまくつながらないんだよ。つながらないないから魔法が発動しない」


 アーデンはまるで魔法学校の年少組に教える先生のようだ。


「まってくれ、マナはあるのか?」

「ある。呪文が伝わらないだけだ」

「伝われば、発動するのか?」

「する」

「どうやって伝えるんだ」

「わからん」

「わからんのか……」

「わからん。だから、聞いてみる」

「誰に」

「魔法の神様に」

「神様……」


 それは心の中に勝手につくりあげた架空の存在ではなかったか。


「魔法は、魔法の神様との会話なんだ。どう話せばいいのか、まずは神様と話さなくちゃな」


 アーデンは呪文を——それは呪文なのか、なにかぶつぶつと、どこか遠い国の言葉のようにも聞こえたし、英語のようにもフランス語のようにも、アフリカのどこかの民族音楽にも聞こえた。

 そのとき、俺の鼻にツンとした臭いが刺さった。


 ——油だ。


 これは、火炎放射器の燃料の臭いだ。

 いよいよか。

 閉鎖された地下の空間で、火炎から逃げることはできない。

 仮に水の中に潜ってやり過ごせたとしても、水面から顔を出したときそこに酸素は残っていない、どっちにしても死ぬ。

 アーデンは周囲の状況などまったく見ていないようだ。

 依然、彼女の心の中にいると思われる魔法の神様と話をしている。

 でも今まで、俺だって自分の中にいる魔法の神様と何度も話したし、交渉もした。

 都度交渉は決裂し、ついぞこの世界で山本アキヲが魔法を使うことはなかった。

 やはり自分の中にいる魔法の神様は所詮架空の存在だ、とあきらめた。

 アーデンはまだ生まれたばかりだが、俺も生まれてから相当長いあいだ魔法を使おうともがいたのだ。


「アーデン……」


 彼女は眼を伏せ、口の中で呪文のような独り言を繰り返している。

 燃料の臭いは一層濃くなってきた。

 出入り口のすべてに配置が完了したか。

 あるいはどこかに脱出口を残して、そこから逃げだそうと出たところで狙い撃ちするか……いずれにしても、生き残るのは難しい。


 ——それもまあ……いいのかな。


 俺にもトカゲたちにも、諦念の空気が流れだした。

 諦めの悪いトカゲは水に入ろうとしている。

 ムラサキは俺のそばを離れない。

 そして、アーデンはやはり天才だった。稀代の魔王だった。

 呪文が、発動したのだ。

 小さい彼女の周囲の空気が青紫色にじわっと光って、波打った。

 そして渦を描くように纏わり付いて、空気の膜を作った。


「どうだウィルゥダ。マナは、あったぞ」


 にかっ、と笑ってドヤ顔だった。


「すごいよアーデン、やっぱりきみはすごい……」

「お前もやれ」


 アーデンは今にも水の中に飛び込もうという態勢だ。


「待ってくれわからん」

「だから、世界が変われば言葉も変わるし呪文も変わるんだよ」

「ええ……?」


 それが瞬時にわかるのは、アーデンだからなのだ。

 俺は今、どんな情けない顔をしているだろう。

 ドラゴンのあきらめ顔は、どんな顔だろうか。


「しょうがないなぁ……」


 ふぅっ、とまるで口笛を吹くみたいにして呪文を唱え、俺に空気を纏わせた。


「さ、いくぞウィルゥダ」

「待ってくれアーデン、この子にも頼む」


 俺は傍にいたムラサキを抱き上げた。

 アーデンはやや軽めのため息をついた。


「……これは遊びじゃないんだぞウィルゥダ」

「俺の娘だ。家族なんだよ」

「あんなに家族を憎んで軽蔑してたお前が。しかもよく見りゃ鳥じゃないか。何が娘だ」

「鳥だよ。でも俺の家族だ。大事な……」

「しょうがないなー……」


 アーデンはムラサキにも魔法をかけた。


「アーデン、もうしわけないんだが……」


 俺は後ろに控えているトカゲたちに視線を送った。

 アーデンは心底あきれたようなため息をついた。


「すまない、こいつらも、これはこれで兄弟なんだ」

「あーもうしょうがないなァァァ——!!」


 俺たちは全員アーデンの魔法によって、水中での窒息の心配から解放された。

 とはいえ魔法の効き目がどの程度かはわからない。

 〝俺〟こと人間山本アキヲ隊長は、すぐにも豪炎をダンジョン内にぶち込んでくる。

 急いで逃げなくてはならない。


「いこう、ムラサキ」

「うん! マミイ!」

「そういうのいいから行くぞ」


 アーデンは醒めた視線を向けつつ、俺の胸からぴょっ、と飛んで水たまりにぽちゃんと落ちた。


 「アーデン、きみは天才だ……」


 俺はやっぱり凡百の魔法使いの一人だった。

 この世界で魔法をいとも簡単に使いこなす、きみは魔王にふさわしい、最高の大魔法使いだ。

 俺はムラサキを抱いて、飛び込んだ。

 トカゲたちも我先にと水に入った。

 そのとき、頭上の水面から光が射した。

 オレンジ色の光、続いて水を通して圧が伝わってきた。

 火炎放射が始まったのだ。

 あと少し遅ければ……。

 水の中で一瞬振り返る。

 石畳の隅に一人で死んでいるキイラのことを思った。

 彼女はダンジョンの奥で炎に焼かれる。

 感傷的な気持ちになったのもほんの少しのことで、前を向いたときにはもう、自分とムラサキが生き残ることで脳がいっぱいになった。

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