「マナは、あるんだ。ここにも。ここにも」
アーデンは俺の胸にしがみついたまま、小さな手を
「マナが……ある、だって?」
わからない。
だったら今のアーデンの呪文で魔法が発動してるはず。
「呪文が伝わってない。それだけのことなのだ」
「伝わってないって?」
「空気が違えば音の伝わり方も変わるということだ」
魔法は、
呪文にマナが呼応し、マナが震動して、マナが配列を変え、魔法が発動する。
つまり……?
「だめだまったくわからん!」
俺は、わかった! みたいに言ったが本当にわからなかった。
「まーようするに呪文がマナにうまくつながらないんだよ。つながらないないから魔法が発動しない」
アーデンはまるで魔法学校の年少組に教える先生のようだ。
「まってくれ、マナはあるのか?」
「ある。呪文が伝わらないだけだ」
「伝われば、発動するのか?」
「する」
「どうやって伝えるんだ」
「わからん」
「わからんのか……」
「わからん。だから、聞いてみる」
「誰に」
「魔法の神様に」
「神様……」
それは心の中に勝手につくりあげた架空の存在ではなかったか。
「魔法は、魔法の神様との会話なんだ。どう話せばいいのか、まずは神様と話さなくちゃな」
アーデンは呪文を——それは呪文なのか、なにかぶつぶつと、どこか遠い国の言葉のようにも聞こえたし、英語のようにもフランス語のようにも、アフリカのどこかの民族音楽にも聞こえた。
そのとき、俺の鼻にツンとした臭いが刺さった。
——油だ。
これは、火炎放射器の燃料の臭いだ。
いよいよか。
閉鎖された地下の空間で、火炎から逃げることはできない。
仮に水の中に潜ってやり過ごせたとしても、水面から顔を出したときそこに酸素は残っていない、どっちにしても死ぬ。
アーデンは周囲の状況などまったく見ていないようだ。
依然、彼女の心の中にいると思われる魔法の神様と話をしている。
でも今まで、俺だって自分の中にいる魔法の神様と何度も話したし、交渉もした。
都度交渉は決裂し、ついぞこの世界で山本アキヲが魔法を使うことはなかった。
やはり自分の中にいる魔法の神様は所詮架空の存在だ、とあきらめた。
アーデンはまだ生まれたばかりだが、俺も生まれてから相当長いあいだ魔法を使おうともがいたのだ。
「アーデン……」
彼女は眼を伏せ、口の中で呪文のような独り言を繰り返している。
燃料の臭いは一層濃くなってきた。
出入り口のすべてに配置が完了したか。
あるいはどこかに脱出口を残して、そこから逃げだそうと出たところで狙い撃ちするか……いずれにしても、生き残るのは難しい。
——それもまあ……いいのかな。
俺にもトカゲたちにも、諦念の空気が流れだした。
諦めの悪いトカゲは水に入ろうとしている。
ムラサキは俺のそばを離れない。
そして、アーデンはやはり天才だった。稀代の魔王だった。
呪文が、発動したのだ。
小さい彼女の周囲の空気が青紫色にじわっと光って、波打った。
そして渦を描くように纏わり付いて、空気の膜を作った。
「どうだウィルゥダ。マナは、あったぞ」
にかっ、と笑ってドヤ顔だった。
「すごいよアーデン、やっぱりきみはすごい……」
「お前もやれ」
アーデンは今にも水の中に飛び込もうという態勢だ。
「待ってくれわからん」
「だから、世界が変われば言葉も変わるし呪文も変わるんだよ」
「ええ……?」
それが瞬時にわかるのは、アーデンだからなのだ。
俺は今、どんな情けない顔をしているだろう。
ドラゴンのあきらめ顔は、どんな顔だろうか。
「しょうがないなぁ……」
ふぅっ、とまるで口笛を吹くみたいにして呪文を唱え、俺に空気を纏わせた。
「さ、いくぞウィルゥダ」
「待ってくれアーデン、この子にも頼む」
俺は傍にいたムラサキを抱き上げた。
アーデンはやや軽めのため息をついた。
「……これは遊びじゃないんだぞウィルゥダ」
「俺の娘だ。家族なんだよ」
「あんなに家族を憎んで軽蔑してたお前が。しかもよく見りゃ鳥じゃないか。何が娘だ」
「鳥だよ。でも俺の家族だ。大事な……」
「しょうがないなー……」
アーデンはムラサキにも魔法をかけた。
「アーデン、もうしわけないんだが……」
俺は後ろに控えているトカゲたちに視線を送った。
アーデンは心底あきれたようなため息をついた。
「すまない、こいつらも、これはこれで兄弟なんだ」
「あーもうしょうがないなァァァ——!!」
俺たちは全員アーデンの魔法によって、水中での窒息の心配から解放された。
とはいえ魔法の効き目がどの程度かはわからない。
〝俺〟こと人間山本アキヲ隊長は、すぐにも豪炎をダンジョン内にぶち込んでくる。
急いで逃げなくてはならない。
「いこう、ムラサキ」
「うん! マミイ!」
「そういうのいいから行くぞ」
アーデンは醒めた視線を向けつつ、俺の胸からぴょっ、と飛んで水たまりにぽちゃんと落ちた。
「アーデン、きみは天才だ……」
俺はやっぱり凡百の魔法使いの一人だった。
この世界で魔法をいとも簡単に使いこなす、きみは魔王にふさわしい、最高の大魔法使いだ。
俺はムラサキを抱いて、飛び込んだ。
トカゲたちも我先にと水に入った。
そのとき、頭上の水面から光が射した。
オレンジ色の光、続いて水を通して圧が伝わってきた。
火炎放射が始まったのだ。
あと少し遅ければ……。
水の中で一瞬振り返る。
石畳の隅に一人で死んでいるキイラのことを思った。
彼女はダンジョンの奥で炎に焼かれる。
感傷的な気持ちになったのもほんの少しのことで、前を向いたときにはもう、自分とムラサキが生き残ることで脳がいっぱいになった。