それからしばらく、ハルはリーヴのそばで様子を見守り続けていた。
今まで溜まっていた思いをハルに向けてぶつけようとするかのように、彼の胸元に抱き付いて泣き続けていたリーヴ。このまま永遠にハルの胸元で泣いたままなのかと思わせるほどの勢いだったが、涙と共に自分の思いを吐き出したことで心の整理ができたのだろう、次第に泣き声が落ち着いていくのが見て取れた。
そして、気が付けばリーヴから泣き声が聞こえなくなり、しまいにはハルの胸元に抱き付いたまま眠りに就いてしまっていた。小さな寝息を立てながら両目を閉じているリーヴ。その表情は、つい直前まで泣き声を張り上げていたとは思えないほどに穏やかなものだった。
「フゥ、やっと、リーヴも落ち着いてくれたか。これで、俺もいよいよ後には引けなくなった、ってことか……」
ハルはリーヴをベッドの上に寝かせ、毛布を優しくかぶせた。静かな表情で眠っているリーヴは、今どのような夢を見ているのだろうか。
やはり、元の姿を取り戻した地上でハルと一緒に暮らしている夢なのだろうか。それとも、終わることのないこの旅を今もなお続けている夢なのだろうか。
ただ、ハルにとって明らかな点があるとすれば、リーヴの胸の内を痛感したことで、なんとしても地上の秘密を突き止めなければならない、その決意を改めて心に宿すものとなった、ということだった。
「そろそろ、アイラさんたちのところに戻らないと。もしかしたら、向こうでも新しい情報を掴んでいるかも知れないし」
リーヴの問題がひとまず落ち着いたタイミングを見計らい、ハルはアイラたちの動向が気になっていた。
彼らはコンピュータールームで、例の集落跡で入手した新しいファイルの内容を、今も分析し続けていることだろう。どこまで分析が進んでいるのか。その内容はどのようなものなのか。それを自分の方でも把握しておく必要がある。
そして、リーヴが眠っているのを確認しながら、ハルが部屋を出ようとした、その時だった。
「……んっ……。ダメ……。ハル、行っちゃ、ヤダ……」
ふと、ベッドの方から小さな声が聞こえた。ハルがそれに気が付いて足を止め、ベッドの方を振り返ると、そこにはか細いうめき声を上げているリーヴの姿があった。
先程まで仰向けの態勢で寝ていたはずのリーヴは、いつの間にかハルの方を向くように身体を横に倒している。それは、まるでハルがどこかに行ってしまうのが寂しいと訴えようとしているかのようでもあった。
「そうか、やっぱり、リーヴを置いて一人だけ行くことはできないよな」
部屋を出ようとしたハルは、一旦ベッドに引き返し、余計な刺激を与えてしまうことのないよう、リーヴの頬を優しく撫でた。そして、リーヴの身体を包んでいた毛布を剥がし、彼女の身体を抱き上げて自分の肩の高さまでもっていった。
すると、リーヴはハルの首に両腕を回し、彼に寄り添うように抱き付いてきた。まるで夢の中でもハルがそばにいることが分かっているかのような、そんな無意識の思いの成せる業だった。
「分かったよ、リーヴ。それじゃ、俺と一緒に行こうか」
ハルはそんなリーヴの背中を優しく数度叩いた。まるで、自分はいつでもそばにいるよ、ということをリーヴに対して示そうとするかのように。
恐らくではあるが、「ハルと一緒にいる」という願いは今でもリーヴの中で一番強く、そして比重の大きなものとなっているのだろう。
それは、リーヴが夢の中にいる時でも全く変わることはない。むしろ、夢の世界に自分の願いを投影させているのではないか。そんな印象さえ匂わせるものがあった。
そして、ハルはリーヴを抱きながら部屋を後にしアイラたちがいるコンピュータールームに向かっていった。
「あっ、ハル。戻ってきたんだね。って、なんだい、リーヴをそんな風に抱いちゃったりしてさ」
コンピュータールームの扉が小さな駆動音を立てながら開かれていく。その向こうに現れたハルとリーヴの姿を最初に認めたのはアイラだった。
アイラはハルが戻ってきたことに安堵すると同時に、彼がリーヴを抱いて連れていることに若干驚いていた。ハルがリーヴを落ち着かせてくれたことは間違いないだろうが、一体何故このようなことになっているのか。
「あぁ、いえ、ちょっと俺たちの方でも色々とありまして、それで……」
ハルはアイラの問いかけに対し、お茶を濁すような返答をすることしかできなかった。リーヴが持っているかも知れない「願いを現実にする力」のことを馬鹿正直に話したところで、彼らに余計な混乱を与えてしまう結果にしかならない。
「ふぅん、そうかい。まぁ、いいさ。リーヴの面倒はアンタに任せるって言ってあるんだし、余計な詮索をするのは野暮ってものだろうね」
アイラはそれ以上ハルを追求する姿勢を見せようとしなかった。もとよりリーヴの面倒をハルに一任しているという事実がある以上、よほどの事情がない限り二人の間に不用意に立ち入ることは控えなければならない。
そんなアイラの姿勢は、ハルにとってもありがたいことだった。リーヴについては今だ謎の部分が多く、彼女自身が指摘した「願いを現実にする力」も本当のことなのか、まだ明らかになっていない。
「ところで、ハル。来てもらって早々悪いが、キミに見てほしいものがある。こっちに来てくれたまえ」
アイラの次はガルディンが、ハルに声を掛けてきた。どうやらハルに見せたいものがあるらしい。ハルはガルディンと、その隣にいるアッシュが待っているコンピューター端末の前へと向かっていった。
途中、リーヴの背中を数回優しく叩き、彼女の不安を少しでも和らげてあげようとする。いつでも自分はそばにいる。そのメッセージをリーヴに伝え続けることも、今のハルにとっては大事な務めなのだ。
「はい、なんでしょうか?」
「あぁ、ゴメンな。ちょっと、ここに座って、このファイル、見てくれへんかな?」
ハルがコンピューター端末の近くまでやってくると、端末の前に座っていたアッシュが席を空け、ハルにそこに座るように促した。目的は、つい先程まで自分たちが調べてきたファイルの内容を、ハルにも見てもらうためだった。
「あっ、これですか? これって、例の研究報告ファイル、ですよね?」
「そうだ。我々の方でも一通り読み終えているが、キミにも読んでもらって、率直な意見を聞かせてもらいたい」
ハルがそのファイルの内容に目を通すと、「環境浄化ナノマシン」という単語がすぐに彼の視界に飛び込んできた。ということは、これは目下自分たちが注目している例の研究報告ファイルなのだな、と察知した。
ハルはガルディンの指示通り、その研究報告ファイルの内容を読み込んでいった。環境浄化ナノマシンが引き起こしたとされる胎児の奇形化。その内容に、ハルもガルディンたちと同様驚きを隠せなかった。
「……なるほど……。この、環境浄化ナノマシンっていうのは、随分と大変なものだったみたいですね……」
「そうだな。ところで、キミはこれを見てどう思った?」
「そうですね……。このファイルだけではなんとも言えませんけど、最終的に環境浄化ナノマシンがどうなったのか、というところはちょっと気になりますね……」
時折リーヴの背中を優しく叩きながら、ファイルの内容に次々と目を通していくハル。その中で、ハルはこのファイルのキーワードでもある、環境浄化ナノマシンの行方がどうしても気がかりだった。
「ふむ、キミもやはりそう思うか。我々も、概ねキミと同じ意見だ。そもそも、細胞レベルの微細な構造を持つナノマシン、というものを一つ残らず回収するというのは、ほとんど不可能に近い」
ハルの意見に、ガルディンも同意している様子だった。確かに今まで収集してきた情報を整理してみれば、どうしてもこの環境浄化ナノマシン、というところに行き着かざるを得ない。
そうなると、問題は過去の環境危機と現在の地上の状態に、果たして関連性があるのか、という部分になるだろう。
ただ、様々な問題を引き起こしたとはいえ、環境浄化ナノマシンが過去の環境危機を解決するのに大きな貢献を果たしたのは事実だろう。それが今もどこかに残っていたとしても、地上をこのような極寒の大地にしてしまうほどの特性があるとは考え難い。
「そうですか。ところで、このファイルの続きはどこにありますか?」
「いや、残念ながらファイルの内容はここまでだ。奇形児がその後どうなったのか、環境浄化ナノマシンが最終的に回収されたのか否か、そのあたりは全く分からん」
ハルの問いかけに、ガルディンは力なく首を左右に振って返事をした。どうやら、また肝心な部分を掴み損ねてしまったらしい。
「それじゃ、またあの集落跡に調査に行くことになるんでしょうか?」
「いや、それは無理だろう。政府の連中があそこに目を付けていることが分かった以上、我々も迂闊にあそこに近づくことはできん」
それならば三度目の調査を、とハルが進言したが、ガルディンはそれも困難を極めるだろうと言って、力なく却下した。
せっかく有力な手がかりに届きそうなところまできておいて、みすみすそれを見逃してしまうのか。
しかし、無理に調査を続行して政府に捕まってしまっては、それこそ自分たちの目的が達成できなくなってしまう。ガルディンが恐れているのは、まさしくその部分だった。
「まぁ、焦っても仕方ないし、ここは一歩ずつ確実にいきましょうか。これから、僕がこのメモリーチップをもうちょっと詳しく見てみますから、リーダーは他に怪しい施設がないか、調べてくれますか?」
アッシュが、まるでその場の雰囲気を和らげようとするように、ハルとガルディンに告げた。そして、ハルを端末の前から立たせると、再度端末の前に座り、慣れた手つきで端末を操作し始めた。
「うむ、分かった。そっちの方は、アッシュ、キミに任せる。なにか分かったら、すぐに教えてくれ」
「了解です。さぁて、またまた難儀な仕事になりそうやなぁ」
ガルディンはアッシュの意図を汲み取ったように返事をすると、別のコンピューター端末の前に座り、アッシュと同様端末の操作を開始した。
若干戸惑うハルに対し、アッシュは無言で首を小さく後ろに振った。それを、この後のことは自分たちに任せておけという、アッシュからのメッセージだと受け取ったハルは、小さく頷いて返すと、彼らのそばから離れていった。
「なぁ、ハル。ちょっとこの後、話があるんだけど、いいかい?」
そこに、彼らの様子を見ていたアイラが、ハルに声を掛けてきた。このような状況で話があるとは、一体どういうことなのだろうか。
「えっ? あっ、はい、いいですよ。それで、話って……」
「あぁ、ここだとちょっと話しにくいから、向こうの部屋に行こうか」
ハルが話を切り出そうとした時、アイラが別の部屋に行くことを提案した。どうやら、アイラにとって他人に聞かれるとよくない話のようである。
「はい、分かりました。リーヴはどうします?」
「リーヴも一緒でいいよ。どうせ、ハルのそばから離れようとしないだろうからさ」
そして、ハルはアイラの先導に従い、コンピュータールームを後にした。この後どんな事実が判明するのだろうか。ハルはコンピューター端末の前で作業をしているガルディンとアッシュの姿に一瞬視線を向けながら、待ち受ける未知の事象に不安を覚えていた。