僕は、茨木が扉をノックした音で、いつものように目を覚ました。起き上がりながら、扉が開くのを見る。銀の盆を片手にやってきた茨木は、僕を見ると微笑した。
「おはようございます、スミス様」
「お、おはよう……」
そばのテーブルの上に、朝のお茶の用意を始めた茨木を眺めながら、昨日の夜のことを思い出す。ギルベルトの事だ。考えてみると、昨日は眠るようにと促されてしまった。茨木は会ったその日から強引な所(?)はあるが、僕の質問に答えてくれなかった事はあまりない。
「ねぇ、茨木」
「どうかなさいましたか?」
「――今朝は、緑茶の気分かなって!」
だが……聞いては悪いかも知れないと思い、僕は別の話題を口にした。
すると茨木が少しだけ驚いたような顔をした後、小さく頷いた。
ベッドから降りた僕は、クローゼットへと向かい、制服のシャツを取り出しながら考える。僕も――人に気を遣って話題を変更できる社交性がちょっと身についてきたのではないだろうか。真新しいシャツに着替えてから、僕は茨木に振り返った。そこには見るからに高級そうな茶器に入った、良い香りのお茶が出現していた。こういった日常系フォンス(?)を見ているせいなのか、やはり戦うというイメージはどこにも無い。
「……F型表現者ってさ、戦うの?」
テーブルに歩み寄りながら、僕は思わず呟いた。すると茨木が首を振る。
「戦って頂いては困ります。私は、スミス様に戦闘行為等を起こさないよう、お願いするべくここにおります」
「それって指パチンで人類消滅……っていうような?」
「ええ」
「そんな事はしないよ」
「――でしたら、悪質なF型表現者と戦う、政治的に、というような意味合いですか?」
「学校の派閥にすら入れない僕には、ハードルが高すぎる」
「スミス様」
「ん?」
「ギルベルト様に何かを聞いたのですか?」
「え?」
茨木はそう言うと、すっと目を細めた。明らかに不機嫌そうな色が瞳に浮かんでいる。首元のネクタイを結んでいた僕は、硬直して、それが上手くできなくなった。すると一歩僕に近づいた茨木が、屈んでネクタイを手に取った。器用にネクタイを締めてくれる。あんまりにもその顔が真剣だったため、ドキドキしてしまった。僕は、何か、地雷を踏んだのだろうか?
「他者の意見に左右される必要はございません。スミス様は、スミス様でいて下さい」
「茨木……」
「朝食に参りましょう」
こうして、それ以上は何も言えず、僕は茶色いブレザーを着てから階下に降りた。今日の朝食は、和食だった。卵焼きが美味しい。その後は、車で学園まで送ってもらった。
教室に入り――僕は本日も無言で席につき、机の上にカバンを載せた。周囲もそんな僕に慣れたのか、和気藹々としつつも僕に声をかけることはない。教科書類を机にしまい、参考書類が入ったタブレットと辞書を机の上に置く。あとは、チャイムが鳴るのを待つだけなのだが、一応今日は、結城くんの姿も探した。
結城くんはこれまでと同じで、予鈴がなる五分前に、大勢の華族派の生徒を連れて教室に入ってきた。青海くんの姿は無い。その内チャイムが鳴ったので、青海くんは今日も遅刻らしいと判断した。こうして午前中の授業が流れていき――僕はようやく「退屈だ」と気づいた。考えてみたら、リア高時代から、僕は学校で授業を受ける行為は好きじゃなかった……。それも手伝って、結城くんの観察に励むことになった。
茨木は従う必要はないと言っていたが、ギルベルトさんに聞いた『会わせたい奴がいる』という言葉を思い出すと、僕のちっぽけな良心が手伝いを申し出るのである。僕には現在、特に会いたい人間はいないが、いつか僕だって、誰かに会いたくなるかもしれない。
そんな事を考えながら昼休みの来訪に、憂鬱さを取り戻した時――僕の机の前に立った人がいた。誰だろうかと顔を上げて、僕は固まった。
「結城くん……」
「名前を覚えてもらっていて光栄だ。今日、気のせいでなければずっと俺の方を見ていたように思うが、何か用か?」
「う」
気づかれていた……恥ずかしくて僕は涙ぐみそうになった。
「ご、ごめん、悪気は……」
「別に責めているわけではないんだ。高圧的な態度になっていたならば、謝る」
「いや! そ、そんな事は!」
教室の視線が、僕達の方に集中している気がした。居た堪れないよ……。
俯いて僕が言葉を探していると、笑う気配がした。顔を上げると、結城くんが微笑していた。
「お昼を一緒にどうだ?」
――この人、良い人だ!!
僕は確信した。
「よろしくお願いします!」
「あちらで食べよう」
「あ、はい!」
思わず勢いよく返事をして、僕は立ち上がった。ガタンと机が音を立てる。動揺しすぎてぶつかってしまった。こうして気づくと僕は――華族派が屯する一角に、お弁当を持って向かっていた。大勢のクラスメイトがまず僕を見た。それから……みんな、満面の笑みになった。
「結城様といれば安全だからな」
「変な庶民連中の色に染まる必要はなし!」
「隅州くん、よろしくね!」
暖かい対応で、僕は迎え入れられた。午前中までとは、周囲の態度が一変している。それは、華族派に限らずで、なんだか学ラン派も、そんな僕を見てほっとしているような顔だった。多分、ぼっちだったのを、みんな気にしていてくれたのだろう。思ったよりも、彼ら・彼女らは良い人だったのかもしれない。
それから、普通に雑談に流れた。僕は……何だか当初の目的と違うことにやっと気づいたが、もう今更、この空気から抜け出せる気はしない。僕は、ぼっちからキョロ充にランクアップしたのだろうか……? 教室の扉が開いたのは、その時だった。
「あれ? 琉唯くん、結城達とご飯? 俺、一緒に食べるつもりで来たのに」
入ってきた蓮くんを見て、僕が口を開くより先に、結城くんが声を上げた。
「前から言おうと思っていたんだが、高杉は隣のクラスだろう」
「――まぁねぇ。それはそうだけど、じゃあ俺もたまには、混ぜて」
「別に構わないが……」
こうして華族派の席に、蓮くんが加わった。これには、教室内部に嬉々としたムードと忌々しそうな空気が、同時に流れた。不機嫌そうなのは、青海くん達の学ラン派だ。
「それでさ、一体琉唯くんには、何があったの? どんな心境の変化!?」
蓮くんに聞かれたので、僕は小ぶりのハンバーグを食べながら悩んだ。
もしかしたら、もうタイミングは無いかもしれないため、せっかくだから本日遊びに誘うべきなのか――明日があるさと考えて、もう少し親交を深めるべきなのか。僕にはわからない。わからないのだから、明日はないかもしれない……!
「――親戚の知人が、昨日訪ねてきて、結城くんにひっそりと会わせたい奴がいるから、遊びに誘えって言ったんだ」
僕は必死に考えてそう告げた。すると、蓮くんが驚いた顔をしてから、結城くんを見た。
「茨木様の知人が直接訪ねて来るって……結城、お前、天国に逝けるといいな。世界貴族関係者って事だろ? 何したの?」
「何もした覚えはない……」
見れば、結城くんの顔が僅かに引きつっていた。
「え、二人とも、どうして茨木だって分かっちゃったの!?」
「よ、呼び捨て!? 琉唯くんって、茨木様より立場上なの!?」
「――他に親戚情報は無いからな……知人というのは? 名前を伺うわけにはいかないか?」
周囲は沈黙している。二人は僕に対して、困惑したように詰め寄ってくる。
だが、そんな事を言われても困るのだ。
「ひ、ひっそりと会わせたいとしか聞いてないから……ひっそり的に、名前は言わない方がいいような気がするんだけど……言っても良いのか? 黙ってろとは言われてない」
「言っちゃおう? ね? ほら! 結城の人生かかってるかもしれないし。結城家の人間が人生かけるなんていう異常事態は、多分二度とこのクラスに居る人々を含めて、テレビの中でしか見る機会はないから」
「そうなの? うん、じゃああの、内緒だけど……ギルベルトという人です」
瞬間、教室中が静まり返った。僕は言うべきではなかったと気づいた。
各地でお弁当箱の落下音が響き渡っている。そこまで行かずとも、多くの箸が床に落下したのは、確認するまでもなかった。一瞥してみると、今度は結城くんの顔が青褪めていたし、蓮くんまで虚を突かれたような顔をしている。
「――た、確かさ、茨木様って、Sランクのギルベルト様の前世界貴族使用人じゃなかった? 前上級秘書官……」
「……新聞記事では、そう見た覚えがある……だが、まさか、ギルベルト様が……? どうして俺を?」
「けどこれ、結城が断ったり、間違ってひっそりではなく大々的に――つまりお忍びなのを邪魔したりしてもさ……結城っていうか、日本滅亡だろ……滅亡案件が、まさかこんな……」
二人は呟きあってから、再度僕を見た。
「琉唯くん、そ、そのお話ってさ、良い方向? 悪い方向?」
「方向の意味が分からないけど……蓮くんも来る?」
「行きたくない!!」
「――高杉、せっかくの誘いだ。一緒に行こう」
「ちょっと待て結城、お前が俺を遊びに誘ったことなんてこれまで皆無だろ!」
「一緒にお弁当を食べている仲だ。それで、隅州……様? 一体いつ俺はお邪魔すればいいんだ?」
「さ、様!? やめて下さい……ええと、卒業までだと遅くて、なるべく早くって……言ってたかな」
「……それは、相応の準備を一年程度結城家で行ってから向かえということか?」
「ううん。僕、どうやって誘って良いか分からなくて、卒業をめどにと伝えたら、早く頼むって言われたんだ」
そんなやりとりをしている内に、昼休みが終わった。放課後、もう一度話そうということで落ち着いた。そこで僕は、人生で初めて(?)、茨木に『今日はクラスメイトと放課後話をするので遅くなります』とトークアプリで連絡した。返事はまだ見ていない。
さて、放課後。
教室で蓮くんを待っていた僕は、結城くんがいるのも分かるとして、他の生徒がそそくさといなくなってしまった事に驚いた。みんな――関わりたくないようだった。ちらりと結城くんを見たのだが、彼が率先して、巻き込んだら悪いと言って帰していた。なんだかどんどん大事になっていくようで気まずい。
結果、僕達二人の他には――青海くんだけが残った。やっぱり、違う派閥だから、気になるのだろうか? そう考えていたら、青海くんが僕を見た。視線が合う。すると彼は小さく笑って席を立ち、僕達の方へと歩み寄ってきた。
「俺、ギルベルト様のファンなんだけどな、俺も行っても良いか?」
「え? 僕は別に良いけど」
「青海! 何を言って――」
「高杉と心中するつもりなら、別に俺がいたって良いだろ?」
「勝手に殺すな。ギルベルト様は、そのような方ではないと……思いたい」
「希望的観測だろうが……」
青海くんが、僕の前の席の椅子を引いて座る。その隣に結城くんも座った。それから言い合いを始めたところを見ていたら、結城くんの緊張していた顔が、少し解けたように見えた。仲が悪いと僕は思っていたのだが、実はそんな事もないのかもしれない。蓮くんがやってきたのは、それから十五分くらしての事だった。