馬の背のような峠を行く。
幸いそこまで厳しい山ではなかった。
土は固く、真っ黒にしげった森の中を一筋の路が縫うようにうねっている。伸び放題の枝や枯れ葉が両側から垂れかかり、ときたま私を撫でていく。
だがしかし、生い茂った森のように見えて、足元には明らかに道があるのだ。足跡のような痕跡はないが、恐らく何度も使用されそこは形成された。
踏み固められている。
それが使用されていると思う根拠だ。
手狭でもなく、一列に並んで進めば昨夜の鹿でも通れるほどの幅。ただ、魔獣が使ったとするには早計である。道が最近使用された形跡がないのだ。横切るような足跡はあったが、恐らく生息している獣がたまたま通ったのだろう。
湿原に痕跡がないように、これも魔獣の術だと思えば辻褄は合う。しかし、まだそれでも自分に都合がいい。そうであったらどれほどいいか、そんな思いが都合のいい仮説を組み上げるのだ。
そのため、可能性の一つとしたほうがいいだろう。
しかし、何かがここを通っているのもまた事実だ。
獣道ではない、しっかりとした路。
何か事情があるか、よほど物好きでなければこんなところへは来ないだろう。この山を越えるか、或いはこの山に用事がある。そんな者くらいしか。
そもそも、湿原の先にあるような辺境の山に道があること自体、謎なことだ。
山に踏み入ったすぐそこに、この道は姿を現した。鹿の魔獣が使っているものでなくとも、何故あるのかと首を傾げてしまう。お陰で私はとても進みやすいのだが、その存在はとても不可思議である。
湿原ですら、別に観光地ではない。
魔獣の討伐でなければ、恐らく人は寄り付かないだろう。精々、環境や動植物の研究者辺りといったところ。
一体、誰が使っているのか。
やがて空気がひやりとしてきて、どこからか瀬川の音がしてきた。途端に温かい湯のような安堵の気持ちが湧き上がる。咽喉が水分を摂るよう訴えていたからだ。
山道を外れてせせらぎのする方へ向かう。誘われているような、そんな気持ちにもなった。
峰にすっぽりと抱き込まれたような山道は、先ほどまで拓けていた路とは違い鬱蒼としている。本来、山を往くとはこういうものだ。道があること自体がおかしいのだと、水に誘われながら思う。
音の源流。
それは細々と流れる沢であった。
川というには小さく、水流もまるで囁き声のよう。しかしそんな小さい存在にすら、私は暗黒を照らす光明を感じた。それほどに、喉が渇いていたのだ。
沢に下りて水を飲む。水筒がないため、手で掬い上げて口をつけた。
冷たい。
何度か掬って口に注ぎ込むと、それまでの咽喉の焦燥はどこかへ行ってしまい、朝の目覚めのような気持ちになった。やわらかな土の匂い。
倦怠は消え、充足感すら感じる。
肩を戦かせて一息。
時間はない。
休息の文字を頭から消し去り、私は来た道を戻ると、再び路を進むことにした。
山は中腹といったところだろうか。
森が鬱蒼としているため、湿原の状態は未だ観察出来ない。この付近で俯瞰出来れば有難かったが、そういうわけにはいかないようだ。
やはり頂上に近づかねばならないようである。ただ拓けた場所に出たからと言って、細かく確認出来るわけではない。俯瞰する形になるとはいえ、真上からの景色ではないため、魔獣のあの背丈ならぎりぎり確認出来ると予想して登山している。
まさか道がしっかりしているとは思わなかったが、柔らかい土を踏み続けながら山を登ることを避けられているのだ。整備をした何者かに感謝しなければなるまい。
無心で、一直線に作られた路を往く。
こうして山を登っていると、数年前の戦争での山岳越えを思い出す。
何故か別動隊として一人山を突っ切るよう命令された私は、ぬかるんだ坂をひたすら登った。敵軍の意表を突くため、真後ろから奇襲しろとのことだった。
前日雨が降った山道は滑りやすく、泥まみれになりながら進んだ。濡れた岩場など、それこそ命の危機を感じた。
奇襲は成功したが、その後泥だらけになった私を見て、同胞が笑っていたのは言うまでもない。
それを考えれば、路が作られたこの山は良心的に思う。
なんて記憶を掘り起こしていると、ほどなくして木々は失せて拓けた場所へ出た。
もう少しで頂上だという地点だろうか、上にはもう少し岩肌がそびえ立つ。しかしどうやら、登山はここまででいいらしい。
どこからか、清冽な風が吹きつけるのを感じる。
それは寂しく立っていた。
人の跫音もしないそこの、広すぎるがらんとした空気が、これが空虚というものなのだと知らせる。
恐らくは、それを立てるために切り拓いた場所。山中の突然現れた、だだっ広い空間。ただ、どうしてこんなものがあるのかはまるで分からない。
二体の鹿の魔獣が、大きな石の上に腰を掛けていた。
いきなり出現した魔獣に対し、それだけでも驚きに値する。しかしそれだけではない。
大きさにしてロラの家ぐらいはあるだろうか。
その存在の意味が分からなくて、心臓に血の代わりに冷水でも入れられたと思うほどにぎょっとする。
存在が忘れ去られたモニュメントにも思う。
投げつけられたのか、幾つもの転がった石ころと所々傷のついた大理石。
それは、何かが葬られた証。
墳墓だった。