「学校かあ。今から行くのは流石にしんどいなあ」
「じゃあ調理教室などいかがですか?本格的に料理を教えてくれる週2日のいい教室を知っていますので、ええとパンプレットは…ああ。これです」
マスターはカウンターの下からパンフレットを取り出す。そこには出汁からお味噌汁を作るとか、野菜の正しい切り方とかを学べると書いてあってかなりわたしの興味をそそった。
「ここの常連さんのやってる教室なんですよ。興味がある子に渡してほしいとパンフレットを託されましてね」
「そうだったんですか。でもここ。すごくいい!私早速応募してみます」
「ああ。マスターからの紹介と言ってもらえたらスムーズに入れると思いますよ。この教室、常に空きまちの人気の教室らしいので」
「わかりました。明日早速電話をしてみます」
その時ドアベルが鳴り、初老の着物を着た女性が入ってきた。
「ああ南草さん、ちょうど良かった。あなたの教室に通いたいって人がいるんですけど、今お話しいいですか?」
南草と呼ばれた女性は品のいい笑顔を向けてカウンター席にやってきてくれた。
私は慌てて席を立ち、南草さんに自己紹介をする。
「初めまして、泉川結菜です」
「あらあら。可愛いお嬢さんだこと。私は南草スミレよ。よろしくね。ちょうど良かったわ。ちょうど教室に通っている生徒さんが転勤で辞めたから。もし良かったらどうかしら?」
「え!いいんですか?ぜひお願いします」
そう言うと南草さんは鞄から書類がまとめられた茶封筒を手渡してきた。
「ここに教室の概要と経費などが書かれているから。書き終わったら中に入っている封筒で郵送してくださいね。手続きが終わったらこちらから連絡しますから。教室は来月からスタートになりますから」
怖いくらいとんとん拍子にことが進んでいて私は嬉しかった。これで出汁から撮った美味しい味噌汁を累に飲んでもらえる。そう思うとワクワクした。
「じゃあ仕事の話はおしまい。これからはたまたま出会ったお客としておしゃべりしましょ」
南草は優しく微笑むとウイスキーをロックで注文していた。
「かっこいい…ウイスキーをロックで注文なんて」
「はは。南草さんは生粋の酒好きですからね。うちで一番いいボトルをお買い上げいただいているんですよ」
そう言って買ったボトルが並んでいる棚の中でも一際輝いている酒瓶に南草のプレートがかかっていた。
「貴方たちは…ごちそうしたいけどまだウイスキーって歳じゃなそうね。貴方はアルコールすら口にしてないし」
私がジンジャエールを飲んでいることを一発で見破られて驚いていると南草は微笑んだ。
「じゃあ代わりにこのこ達にシャンパンとジンジャエールをそれからつまみのナッツもつけてあげて」
「そんな。申し訳ないです」
私は咄嗟に遠慮したが、南草は微笑みながら答える。
「遠慮しないで、こう見えて稼いでいるのよ。貴方達の飲み物代くらいではお財布は傷まないわ。それより、今何を頑張っているのか、恋はしているのか。若い子の話が聞きたいわ」
南草はそう言うとウイスキーをまた一口含んだ。
(話の対価ってことかな?何を話そう)
少し考えていると愛花は南草さんに気軽に話かけ始めた。
「初めまして私は結菜の友達の佐々木愛花です」
「愛花さん初めまして。貴方はお酒がなかなか強そうね」
「ええ。割と強い方かと。あまり酔ったことがないので」
愛花は早速コミュ力を爆発させて南草さんの懐に入り込んで行った。さすがというか、頼もしいというか。きっと私一人だったらうまく話せなかっただろうからありがたかった。
「愛花さん今彼氏は?」
「ええ、同棲している彼とは近々結婚する予定なんです」
「素敵!お式は?」
「ああ。紙の上だけで済ます予定です。気が向いたら写真だけは撮りに行くかもしれませんが」
そう言って微笑むと、南草は愛花に優しく言った。
「そう。今はそう言うこともあるのね。私と同じ。夫は今も健在で家にいるのだけど、彼と結婚する時、お金がなくて書類だけの結婚をしたの。本当はドレスに憧れていたけど、生活するので精一杯でそんな余裕なかったわ。余裕ができたのはドレスが似合わなくなった頃だから、いまだに心残りなの。ねえ。せめて写真だけは残しておいた方がいいわよ。心残りがある私からのアドバイス」
「ありがとうございます。お話し聞けて良かった。実はずっと悩んでいたんです。写真を撮りに行くか。でも栄…私の彼氏なんですけど、彼も写真は撮ったほうがいいって言ってくれているし、今度写真館に行ってみます」
そう言うと南草はふわりと微笑んだ。それにしても旦那さんが家にいるのに一人のみに来られる大人な女性である南草さんは不思議な魅力がある人で私達は知らず知らずの間に色々なことを相談したり、軽く雑談していた。楽しい時間はあっという間で、そろそろ帰らないと終電を逃しそうになっていた。
「走れば間に合うかな」
私が言うと愛花は飲み過ぎでふらついていて、走るのは無理だと判断した私はタクシーを呼ぶことにした。
だがそれを南草が遮った。
「夫が今外に車をつけて待ってくれているから家まで送るわ」
「ですが…そこまでしていただくわけには」
「いいのよ。夫と夜のドライブデートになるから。素敵でしょ?」
南草はそう言うとお勘定を済ませて私達を車まで案内した。
「あなた。若い娘さん達をうっかり酔わせてしまったから送ってあげたいんだけどいいかしら?」
「もちろんだよ。じゃあゆっくり走ろうか」
南草さんの旦那さんは白髪に金縁のメガネをかけた洒落た人で私は一眼見て好感が持てた。後ろの席に座らせてもらって、最初に愛花の家に着くと、愛花は少し復活していて、送ってくれてことを丁寧にお礼して家に向かって歩いて行った。
私も家の前まで送ってもらうと、南草夫婦にお礼を言った。
「楽しい夜をありがとうございました。料理教室でまたお会いできるのを楽しみにしています」
「ええ。泉川さんがきてくれるのを楽しみにしているわ。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
そう言って南草夫婦の車は走り去っていった。