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第129話 新人教育

私はいっぱいになったキャリーケースの前で座り込んでいた。

(う〜ん。本当はもっと詰めたいけど入らない。ダンボールも2箱くらい持って行っていいか聞いてみようかな)


 そう思ったが夜も遅いし、私も眠くてとりあえず睡眠がとりたくてベッドに横になってあっという間に眠ってしまった。


 翌日愛花に早速報告する。


「愛花、実はね、今週末からまた同居することになったの」


「おめでとう!ずっと心配していたから私も嬉しいよ。ねえ。何か手伝えることある?」


 愛花は心配そうに私に聞いてくれたが、今のところ困ったことはないので断った。


「大丈夫。荷物は週末ごとに運び込むことになっているし。とりあえず郵便局に行って送付先の変更届だけだせばあとは後々でいいから」


「そっか。こういう時、持ち家って便利だね」


「そうだね。本当に両親に感謝しかないよ。家を残してくれたおかげで自由にできてるから」


 そう。私は恵まれている。こんなに色々あってあっちに行ったりこっちに行ったり気軽にできるのは両親が家を残してくれていたからだ。


「あ!お父さんとお母さんにも報告しないと」


 忘れていたけどこういうことはきちんと報告しないといけない。


「そうだよね。親御さんも心配するだろうからしときな」


「うん。今日帰ったら電話するよ」


 わたしはそういとランチのパスタを口いっぱいに頬張った。


 午後ランチから帰ると課長から呼び出しがあった。

(なんだろう?)


 特に思い当たることがないので少し緊張気味に課長の席に行くと。そこには長身で切長の瞳に引き締まった顔立ちの涼しげな美男子が立っていた。


「課長。今日はどういったご用件でしょうか?」


 恐る恐る聞くと課長はそこに立っている青年を紹介してきた。


「ああ、泉川さん。実は新人の教育を頼みたくて。彼は世良黒二(せらこくじ)君。J入ってすぐに車の事故で入院していたからこの時期の研修になってね、泉川さんは人当たりも教え方も上手だからぜひお願いしたいんだけど、いいかな?」


「はい。そういうことでしたら。世良黒二さん。初めまして。泉川結菜です。よろしくお願いします」


 そう言って手を出したが、なぜか世良君は握り返してくれず行き場を失った手はしばらくして下された。


「すみません。自分女性不審でして。できれば男性の方に…」


 世良は課長に言うと課長は少し厳しめに言った。


「世良君。仕事をしていく上で女性を避けて通れるほど世の中甘くないよ。君が何を抱えているのかは知らないけれど。仕事上はきちんと対応しなさい」


(課長がまともなことを言っている)

 課長は普段割と優しくて親父ギャグを言って周りを凍り付かせるような人なのだが、久々に威厳のあるところを見た気がした。


 そんな失礼なことをちょっと考えてしまっていた。


「そっか。世良君は女性は苦手なんだね。わかった。じゃあ男女関係なく仕事できるように頑張っていこう。私も支援するから」


そう言うと世良は戸惑った様子を見せたが弱々しい声で“わかりました”と言った。


「じゃあ最初に世良君は空いてるから私のデスクの隣を使ってもらうから。仕事は順次教えていくね。今日はとりあえず各所の案内をさせてもらうね」


「はい…」


 世良は顔色悪く本当に女性が苦手なのだとわかる感じで、気の毒に思ったが、社会ではそれは通用しないことなので頑張ってもらうしかない。

(可哀想だけど頑張れ世良君)

 心の中で世良を応援しながらわたしは会社の中を案内し始めた。途中休憩コーナーに来たので世良を休ませるためにコーヒーを奢ることにした。


「世良くん何がいい?ちょっと休憩しようか」


「あ…はい…じゃあコーヒーで」


 私は缶コーヒーを2本買うと1本をハンカチで包んで世良君に渡した。


「え?これは?」


 世良は不思議そうに聞くので私は行動の意味を説明した。


「女の人が苦手って聞いたから、私が触ったら飲みにくいかなって思って。あ。ハンカチは綺麗なものだから大丈夫だよ」


「…!!ありがとうございます。こんなふうに気遣っていただいたのは初めてで…」


 世良はその時初めて私に目線を合わせてくれた。今まではオドオドと視線を彷徨わせて顔も見てくれなかったから。


「可愛い」


 ポツリと世良は言うとそれを打ち消すように缶のプルタブを開けてコーヒーを極々と飲み干した。


(良かった。緊張で喉乾いたてたのね)


 私はニコニコ笑いながら自分のコーヒーをゆっくり飲んでいく。少しでも世良を休ませてあげたかったからだ。


「あの…泉川先輩は…」


「ん?なあに?」


「いえ…なんでもないです」


 先ほどまでと違い、世良は私のことをまっすぐ見つめるようになっていた。さっきの缶コーヒーの気遣いで私は危険人物じゃないと思ってもらえたようでホッとした。それにしても顔色が悪くなるくらい女性が苦手なのは仕事をする上で大変だろうと心配になった。

(少しずつでも慣れてくれたらいいんだけど。過去の何かでそうなっちゃったんなら尚更心配だな)

 でも私にできることは新人教育中に少しでも女性と仕事ができるように補助することだけ。気を揉んでも仕方ないが少しでも役に立とうと決意した。



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