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第55話 貴重な時間

かなり難しい話だった

一生懸命 聴いたよ


しっかり耳を傾けていた

なぜか急に飛び込んできたのは


おい おまえら ちゃんと聞いてるのか


怒号という表現ではズレてしまいそうだが

嫌悪に値する言い回しだった


とたんに おれの体が反応する

拒絶反応だ


いつも静かに授業を聞いていて

ときどき速記のようにメモも取った


かなり難しい性格なのかな

おれは一瞬で嫌いになった


まるでその講師はエンタメ感覚で

生徒はファンな聴き手というのか

無反応が嫌だったらしい

生気が感じられなくて

おれたち受講生の空気感が気持ち悪かったらしい



それだけ聞いて納得したよ

おれは荷物をまとめて席を立つ


おいそこのおまえどこへ行く気だこのやろう


背中で聴こえたけれど

鉄扉の重々しい音が断ち切ってくれた



「おう、予備校とやらは、どうだった」と父に問われ

おれは躊躇したけど正直に答えた

すると父は視線を合わすことをやめて黙り込み

ふっ

と音を立てて息を吐いた


母は姉に「これも並べて」と

揚げたてのサツマイモの天ぷらを渡す

受け取った姉は

食卓の異様な空気を察知すると


「そういうものよ、予備校なんて」


と静かに言い放つ


「なんだよおまえ、そういうものって」

と父が少しだけ語気を荒げたが

いつものように冷静な口調だった


「そういうものは、そういうもの。

 他になんて言えばいいっていうの?」


「そういうものじゃわからん。ちゃんと、わかるように話せ」


「予備校の授業は漫才やコンサートと同じってことよ。

 生徒は観客。

 人気者のところに、ひとは集まる。

 楽しい、面白い、だけじゃないの。

 コワイ、おそろしい、それも観たいっていうひとがいる。

 怒りたいの、怒られたいの、静寂が苦手で静けさを嫌うひとたちが多いのよ」


父は黙って天ぷらにかじりついた


さすがに今夜は、かなり厳しく怒られる

そう思って身構えていたら

「そうか。わかった」と父は納得して「わるかったな、へんなところに行かせようとして」


「へんなところ?」おれが思わず問いかける「なにがへんなのさ」


「なにがへんって…へんなものは、へんだろう?

 勉強しに行くのに。授業を静かに聞くのは、あたりまえじゃないか。

 なんだその先生は、歓声でもあびたかったのか?

 誰かが自由に質問したり、あいづちしたり、そういう自分勝手な発言を望んでるみたいにも聞こえるぞ。なんだそれ、そんなのそもそも予備校として、教師として失格じゃないのかよ」


 「おとうさま」姉が言う「それは言い過ぎ。予備校はビジネスよ?  義務教育じゃないわ」



おれは父と姉の会話を聞きながら思い出してみる

あの予備校その初日この冬期講習で

最初の授業それも得意な社会で

おれは早々に教室を出てきた


なんでだろう

好きな科目の先生ほど

なぜか相性の悪い組み合わせ

苦手な科目は

また来たいと思える先生だったりして

うまくかみあわない


かみあわないけど


「でもさ、おとうさま」姉がどこか誇らしげに語りだす「あきららしいと思わない?」


「なんだよそれ、ほめごろしかよ」父が笑いながら「まあ、がまんがないというか、短期というかだな」と、ぐいっと手を伸ばしてきてぐしゃぐしゃっと、おれの頭をかき乱す


いてえよ


「ま、あきらが言ったことが本当で、その先生が授業そっちのけで説教しまくったんだとしたら…」

父はそこまで言うと、次の天ぷらパクッ


「だとしたら?」姉がちょっと意味ありげにニヤケて問う「ねえ。だとしたら、なあに?」


父は、すぐにでも語りたいのだろう

もぐもぐしながら

ぬはぬはとさわぐ

もぐもぐしながら

着実によく噛んでいる

そのもどかしさ

その急ぐ感じが


おれに期待を持たせてしまう

もしかしたら

怒られないかも


さっき食らいつきはじめた天ぷらを食べきって緑茶を少しだけ飲んだ父が

「うん」ごくり、次のひとくち緑茶ごくり、「うん」返事のような説明のような「うん」


おれは不安になる

やっぱダメかこれ

怒られると思っていたけど

いざ怒られるの決定となったら急に胸が締め付けられてきた


「あきらや」と父に呼びかけられたとき

おそらくおれは涙を流していたんだと思う


「なんだおまえ、ないてるのか」

「ないてねえよ」

「じゃなんだよそれ」


おれではなく姉が答える

「おとうさま、涙は血液なんですって。あきらが流しているのは、授業で勉強する気まんまんだったのに、意味不明な説教で大事な時間を奪われるかもしれなかったことの悔しさでしょ。つまり傷口から血が流れてるってことよ」


「なんだそれ。ゆかり、おまえのいってることが正しいとすれば」父は笑う


「正しいとすれば」姉が問う「わたしがいってるのが正しければなに?」


父は、ごくり、緑茶を飲み切った

「おかわり」と母の背中に声をかけて湯呑を突き上げると


「はーい」と姉が受け取って

「なによもう」と不愉快そうな母に渡す


父はおれを睨むように見た

口元は歪んでいる

怒られるのか

笑われるのか


「そんなんだったらあれだ、予備校失格。その先生も、教師失格だな」


覚悟をきめていたけど『あれ?』と思った

おれが父と目を合わせると

「まあ、いいさ。そんなところ、もう二度と行かなくていい」


「授業料、損しちゃったねー」と姉が言う「もったいなかったね。って、返してもらったら?」

たしかに。

予備校失格で教師失格なら、話が違うってことになるし

すると父が


「ゆかりや、よく聞けな。授業料は払った。あちらはあちらで、あれが予備校流で、あんなのが教師として雇われていて、とにかく失格だよ。それがわかったんだ、高いけど授業料には違いない。なぜなら勉強になったからだ。おとうさんは、おまえたちに勉強してもらうために塾や予備校にかよわせている。そうだろう?」


おれは、よくわからなかったし、うまく理解できなかったけれど

ひたすら涙を流しながらおなかをグーグーいわせて


「いいからさっさと食べてよねー」という母の声で

「そうだな、この話は終わりにしよう。さ、おしまいだ、おしまい」と父が仕切る


じいっと視線を感じていたけれど目が合わないように泳いでいたおれの肩に

「よかったね」姉が言い放つ「授業料高くついちゃったけど、おとうさまが言うには、貴重な時間を手に入れたってことなんじゃないかな」


「そうだよ、おまえなかなかいいこと言うじゃないか。ゆかりが言うとおり、時は金なりだ。失格な連中から、勉強する時間を取り戻せたってことだ。なあ、だから安心してもっと勉強しろや」

父が上機嫌に見えてしまう

やけくそなんだろうけれど

ひどく いいことあったみたいに笑っていて

つられて「まったくもう、しょうがないわねー」と母も笑って


油断したおれの肩をツンて姉が「おい ちゃんと聞いてるのか」と笑った




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