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第82話 ほほを伝う

あれは書架の記憶です

ずらりと並んだ背表紙はアンティークのようで

くすんでいたような気がします

誇りの支配する領域に

迷い込んだら最後もう二度と還れないのです


もちろん身体からだは日常に戻り

異次元すら「へんな場所」としか意識できず

いつものように朝を迎えて

いつものように歯を磨いて

いつものように元気よく

いってらっしゃい

いってきます

幼なじみと手をつないで歩けば

ひやしてくるやつらがいたけど

どこかで割り切ってしまったおれは

相手にしないし照れもせずに

いっそう手をギュってするだけ


いつものようにそれぞれのクラスに

いつものようにおれは机のフックに

かばん

筆箱

宿題プリント

ふてくされたい気分で目を閉じた


あれは初夏の記憶です

幼なじみとプールサイド

水の冷たさを話していたら

熱い陽射しのまま雨粒ポツリ

やがてザラザラする痛みとともに

どこかのトタン屋根を撃ちまくってた


夏期講習いつから

終業式のあとすぐ

臨海学校はどうするの

いくよ いくけど


どうしてあんなに切羽詰っていたんだろうね

なにやら急かされて励まされてあおられてばかりで

終わってみれば

あっというま


そんなわけあるかよ

あっというまじゃねえよ

長かった


長くて長くて息が止まりそうで苦しくて吐いたし

笑うしかなかった

恥ずかしいことに心の奥では

ほめられたい気持ちがあった

うまくどうにか期待に応えて

親を喜ばせたかったけど

実は自分がほめられたくて

無我夢中なだけだったのかもしれない


やめればよかった

考えたこともある


やめておけば

失わずに済んだものもいっぱいあるし

けど


おれの選択

おれの選択?

おれが選んで決めたこと

おれが選んで決めたこと?


どうしてそうなる

どうしてそうなった

いや わかるけど



あれが書家しょかの扉です

この一枚をお守りにして

耐え抜いてどうにか勝ったつもりが

あきらかにおかしいやつらの仲間

おれが別人になっていた


やわらかい筆が好き

固くてなかなか溶けない墨も好き

思うように書けないくせに

それでいい 上手を狙うな と

動く標的を射るような目で

あの一枚をお守りにくれたときと同じ

やさしく頭 なでてくれた


がんばったんだってな

おめでとう


いまなんて

確かめることもできなくて

もう一度ちゃんと聞きたくて

そのときの気持ちも希望も期待も不安も後悔も達成感も

なにひとつ上手に言葉に換えられなかった


ほほをつたう粒は血の塊

嫌悪感で膨らんだ記憶が

命の赤みを奪うから

こんなに透明なんだってさ


雨のように流れて見えても

一粒 一粒 独立している

おれが無口に叫ぶとき

また勝手に

ほほをつた

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