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No.19 最終話『隣に座ってもいいですか』- 1



「あ、んたね…はぁ、少しは…青になるまで待ちなさいよ」


ぎゅっと握られていた腕を離されて、重力に負けた自分の右手が元の位置へと戻っていく。


無視するどころか、挨拶を返すどころか、私の後を走って追いかけてくるなんて信じられない。

私の記憶に残っている彼女は、こんなことをするような人じゃなかった。


「か、柏木さんどうしたの…」

「あんたに言いたいことあったから追いかけて来たんだよ。どうせスーパーまで行くつもりだったし、あんたは家帰るんでしょ」

「そ、それってスーパーまで一緒に帰れってこと?」

「うっさい!自分でもあんたと帰るなんて可笑しいことわかってんだよ!さっさと行く!」

「はい…」


まさかの強制連行に肩を落としながらヨタヨタと歩く。


横に並んで歩く柏木さんの目は顔を上げて見ることが出来なくて、チラチラと様子を伺うように目だけを動かした。


「さ、さっき一緒にいた男の人はいいの?」

「いいよ。丁度あっちも帰る時間だったし」

「そう…」


一瞬で終わってしまった話題に手先が冷たくなっていく。

その上緊張で背中に冷や汗が伝い始める。


私に言いたいことがあって追いかけてきたと言った柏木さんは、何故か一向に話し出さないし会話を続ける気も無さそうだった。


彼女は一体何がしたいんだろう。

気性が荒くて暴力的で、根に持つタイプの柏木さんのことだ。


昔の彼女の行動を思い返せば、これから私がどんな目に合うのかは想像がつく。

私のことを煮て焼いて食う気なのかもしれない。


そう思いながらぶるっと身震いをした瞬間、思いがけないことが目の前で起こった。


「…あげる」

「え…?」

「寒いんでしょ。春だけどまだカイロ持ち歩いてんの。冷え性だから」

「え、あ…どうも」


差し出されたカイロを受け取りながら、私は寒くて震えたんじゃありませんと心の中で呟く。

けどそんなことよりも、今目の前で見せられた柏木さんの親切心に驚きが隠せなかった。


本当に何がしたいのかわからない。

私に何が言いたいのかも…全然わからない。


しばらくの間沈黙が続いた後、最初に声を発したのは前を真っ直ぐ見つめている柏木さんの方だった。


「私、今イジメられてんだよね。高校卒業してから会社入って4年経つけど、未だにイジメられっぱなし」

「え?!」

「高校で仲良かった奴らは卒業した途端、音信不通になるし、友達は皆無。これ聞いてどう思う?」

「ど、どうって…」

「だからさ」


ざまあみろって思うかって聞いてんの。


そう問われた質問に、ぐっと両手で自分の口元を押さえつける。

ちらっと盗み見た柏木さんの表情は、高校生の時とは違うストレートの黒髪に隠されていて見えそうにない。


顔が見えないほど俯いている時点で、彼女がしている表情は明白だった。

その上、発した声色は悲しそうな辛そうな…表すとしたら雨を絵で描く時のような水色。


だからこそ私が今言いたくなっている本音は絶対に言っちゃいけない。

ここは仕方ないけど、目の前で落ち込んでいる彼女には否定する言葉を言ってあげるべきだ。


「ねえ、聞いてんの?ざまあみろって思ってるんでしょ?」

「ま、まさか!ざまあみろだなんて思ってないよ!そりゃ良い気味だ、思い知ったか!くらいになら思ったかもしれないけど、ざまあみろとまでは思ってな…」

「正直だな、あんたはッ!」


あああ、と心の中で嘆きながら両手で頭を覆う。

これで私の未来は無くなった。


目を吊り上げながら叫んだ柏木さんが次にすることと言えば私への攻撃に決まってる。

暴言を吐きながら腕を振り上げて思い切り殴ってくるんだとばかり思っていた。


「…さっき、私が話してた男のことだけど」

「え、あ…うん」

「あれ、私の彼氏」

「お、おう…」


想像していたものとは違う謎の紹介に、思わず微妙な返事をしてしまう。

さっきから柏木さんの言ってくる内容は脈絡のないことばかりで一々返答に困る。


何が言いたいのかも何を伝えたいのかも予想できず、眉間に皺を寄せながら首を傾げた時だった。


「…ありがとう」

「……?!」


突然呟かれたお礼に体全体がびくりと反応する。

目はこれでもかというくらい見開いていて、自分でも制御することが出来なかった。


「あいつが支えてくれてるから、私は今イジメられててもやっていけてるんだと思う」

「…うん」

「でももしあんたがあの時止めてくれてなかったら、私はあいつさえ失ってたんだと思う。自分の手で、幸せ逃してたんだと思う。だから…」


あの時止めてくれて…ありがとう。


そう理由を説明した上で、真っ直ぐと感謝の言葉を呟かれる。

そんな柏木さんの姿に未だ驚きが隠せなくて、あんぐりと口は開いたままだった。


突然のことで頭が追いつかない。

何かちゃんとした返す言葉を言わなきゃいけないんだろうけど、私と柏木さんは元々そんな親しい間柄なわけでもない。


どうしよう。でも嬉しい。どうしよう。


ぐるぐると渦巻く思考をそのまま口にしてしまおうかとも思ったけど、先について出てきてしまったのは緊張感の欠片もない返事。


「柏木さん、まともになったね」

「大人になったって言えよ」


柏木さんの鋭い突っ込みと共に込み上げてきたのは心の底から出てくる笑顔。

あはは!と声に出して笑えば向こうもしたこともないような顔で笑ってみせる。


まさか柏木さんと笑い合う日が来るなんて思いもしなかった。


柏木さんの優しさに温められた手をぎゅっと握る。

両手の中にいたカイロを相手へ返しながら、もう大丈夫、ありがとうとお礼を言った。


素直に受けとった柏木さんが、左手に見えてきたスーパーを横目に立ち止まる。

お別れをする前に何かを言おうとしているのか、スウッと空気を吸っては言葉にせず吐き出していく。


どうしたのかとこちらから尋ねようとした瞬間、見たこともないような優しい笑顔で問いかけられた。


「あんたは…元気にやってんの?」


ああ、そういうことか。

何度も言おうとしては言葉にせず深呼吸を繰り返していた理由が今わかった。


柏木さんは本当に心から変わったと思うし、優しくなったとも思う。

けど女の勘と鋭い所は変わってない。


あの頃から柏木さんは、私が翼へ好意を持っていたことに気付いていた。

理由まではわからなくても優衣と同じくらい勘が良いことはわかっている。


そしてその柏木さんが、何度も頭の中で言葉を選びながら聞きたかったことはこうだ。

あの頃、自分と同じように失恋をしてしまった君は…


今、幸せですか?


「……すごくすごく、幸せですよ」


今日二度目の正しい回答を呟いてから、にっこりと笑顔で手を振ってみせる。

それを見てほっと息をついた柏木さんに、心の中でありがとうと小さく呟いた。


今日何度目かの優しい笑顔を向けながら、柏木さんが手を振って離れていく。

背筋を伸ばして歩いていく後姿を見送りながら、自分の足先を目的の方向へ向き直した。

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