☆第三十八章 頭が真っ白だよ。
季節は流れ、再び春がやってくる。杏が保育園へ入園する始めての日だ。
慣らし保育で、二日間、午前中のみ預かってもらった。
この頃になるとママを認識して「ママ」と呼んでいた。一歳と三ヶ月という微妙なお年頃である。
朝、保育園に置き去りにしようとするとギャン泣きされる。辛いけれど保育士さんが
「すぐに慣れるわよ、気にしないで」と言う。
しかし親としては、後ろ髪をひかれる思いで園から立ち去る。
他の子たちもおおよそ、そんな感じだ。
「ママ―」「ぎゃー」
泣き声が共鳴しあって大変そうだ。保育士さんたちが必死で子どもたちをなだめる……というか取り押さえているという方が正しいかもしれない。
「四月はだいたいこんな感じですよ」と保育士さんは言っていた。
子どもを預けてダラダラするワケにはいかない。さあ、仕事と言っていいのかわからないけれど、わたしは思い切ってアニメーターさんに依頼したアニメーションと自分で録音した琴の音色と、様々な音響を重ね合わせて一つの動画を作成した。
一週間前に動画サイトにアップしたけれど、どうなっているのか確認。
視聴回数、三十五回……、まだまだ。だってまだ一週間だし、これをどうやって拡散していくのか。
アニメーションは最初見たときに鳥肌が立った。
「すごい、全身を突き抜けていくよな感覚っ!」
環名ちゃんはそう言ってくれたし、自分でもそう思う。こんなことできたんだ。それだけでも自信になる。
SNSを使って拡散を試みる。
せっかく保育園に預かってもらえて自由に時間を使えるようになったので、リアルにお金を稼ごうと、週に二日だけラーメン屋でバイトすることにした。
火曜日と金曜日。土日出勤しなくてもいいよ~。とラフな店長がそう言ってくれたのでお言葉に甘えて平日二日、昼のみ短時間出勤させてもらっている。
まあ、ほんの少しだけ社会復帰を試みたというのもある。
家から徒歩五分ほどのところにある個人経営のラーメン屋で、店長は四十代くらいのおじさ……男の人だ。
何度かここのラーメンを食べにきたことがあるが、味噌ベースのスープが美味しい。
「琴ちゃん! まかない食べてね!」
「ありがとうございます」
お昼ごはんにまかないラーメンがつくのはありがたい。
バイトはわたしを含めて全員で四人いるらしい。
「いや、助かるよー、最近バイトがなかなか集まらなくてね」
「いえ、こちらこそシフトのワガママ聞いてくれてありがとうございます」
「あの……琴ちゃんって独身?」
「え……まぁ、独身っていうかバツイチですけど……」
なんか嫌な予感がした。
「今夜あたりどう?」
耳元でぼそっと言われた。あれ……頭が真っ白だ。
「そ、そんな御冗談を」
「えー、冗談じゃないんだけどな」
まだ働きはじめて三日なのになんてこった。
「あの、今はお仕事中なので……」
「じゃあ、仕事が終わったら大丈夫なの?」
ちがーーーーーーう‼️
現在二時前で、昼のピークを過ぎて、ちょうど店のお客さんがゼロになったタイミングだ。頼む、誰か来店してくれ。
こういう時、軽い人なら適当にかわすのか。わたしはこういうのに慣れていない。ウブ女である。
とっさに台拭きを持って机を丹念に拭き始めた。
「ね、どうなの?」
せっかく始めたバイトなのに……。
そこへ、ガラガラと扉が開いてお客さんが来た。助かった!
「いらっしゃ……」
あれ、この間、河川敷で懐中電灯を貸してくれた男の方だった。また頭が真っ白になってしまう。
店長が店の奥で小さく舌打ちしたのが聞こえてしまったが、慌てて席を案内する。
「あの、このあいだはありがとうございました!」
そうお礼を言うと、
「ああ、やっぱり、似ているなと思いました」
と男の人はにこりと笑う。
身長が百八十近くあるその男性はシンプルに味噌ラーメンを頼んだ。
「お子さんが無事でよかったです」
「ええ、あの時は本当に親切にしていただいて」
笑うと目元がくしゃっとなって可愛らしい印象の人だ。
「前田さん」
先ほどまで琴ちゃんと呼んでいた店長がムスッとした声で呼ぶ。
「はい」
「はい、じゃないよ。ラーメン出来上がっているから持っていって」
ダメだ。ここではもう働けない。たった三日で辞めるなんて嫌だけれど辞めるしかなかった。