☆第三十九章 着物をきてみようよ! 絶対似合うから
わたしは落ち込んでいた。またか。どうしてうまくいかないのだろうか。
「ほれ、食べな」
あき婆がほくほくの大学芋を作ってくれた。美味しいけれど、この家は天国みたいだけれど、外に出るのが怖くなってしまう。
「呆れた人だね。琴ちゃん、そんなの辞めて当然だよっ」
麗奈はそう言ってくれる。
「今夜どう? って聞かれたんだろう? え、ゴルフですか? それともボウリングですか? とでも答えておいていいくらいだよ」
あき婆くらい軽くあしらえたらいいのに、わたしはそれができない。
「琴ちゃんはそういうのニガテなの」
麗奈があき婆にそう言ってくれる。
「そんな男もごまんといる。適当にあしらう方法も知っておいた方がいい」
あき婆の言うとおりだ。わたしは弱いし、なんか負けてばかりな気がする。
「そやけどな」
あき婆が続ける。
「世界人口の半分は男や。だから、いい人も悪い人も、ものすごくいい人も、ものすごく悪い人もいる」
「確かにー」
「だから八十二億人のうち半分の四十一億人は男性。その中の一割がものすごくいい人だったとしたら、約四億人のすごくいい人がいるってもんよ」
なんだかすごい話だ。桁が多すぎてピンとこない。
「それ、赤ちゃんも百歳のおじいちゃんも含めてってことですよね?」
焼酎ではなく熱燗を手にした環名ちゃんが答える。今日は環名ちゃんも来ている。
「師匠、酒が足りないっす」
「またあんまり飲みすぎるんじゃないよ」
「わたしも変な上司に追いかけられているけれど、もー無視っすね」
環名ちゃんくらい可愛かったらモテそうだ。
「たぶん、琴さんって自分の魅力わかっていなさそうだから」
「魅力?」
熱燗を手に、少しだけ赤い顔をした環名ちゃんの言葉に首をかしげる。
「そう、琴さんはねぇ。なんてゆーか和風美人ってかんじ」
「え?」
「わかるー。なんか絶対着物似合うよね」
麗奈はあき婆の作った大学芋をハイペースで食べている。
「黒のサラサラストレートの髪うらやましい。それ地毛でしょう? それに肌も白いし、目も黒くてしっかりした瞳」
なんだ、なんか急に照れるではないか。
「琴ちゃんに着物着てほしい!」
「そうだね! よし着物調達だ! それ着て琴を弾いてよ」
なんだって???
その日は遅いので帰宅した環名ちゃんが、翌日ほんとうに着物を持ってきた。
「この着物、どうしたの?」
「いやー、実は実家が呉服店なの」
「ええっ⁉️」
「一人暮らしする時に、いらないって言ったんだけれど親に無理やり持たされた」
その着物は緑というより翠という漢字の方が合いそうな色で、ストライプ柄だった。
「着付けも習わされたからできますよー」
そう言って環名ちゃんに着物を着せてもらった。鏡の前の自分を見て、我ながら照れる。
「素敵!」
「美しい!」
「和服美人!」
「似合うねー」
麗奈と環名ちゃんが褒めたたえてくれて恥ずかしくなる。
わたしは親に送ってもらった十七弦箏を取り出して、静かに弾き始めた。
上手くはないけれど、柔らかい、懐かしい音色が響く。
「こりゃイチコロだわ」
「そう、どんな男もイチコロだ」
「女だってイチコロだよ」
わたしは恋愛なんてすっかり忘れていた。学のことはまだほんの少しだけ心の片隅に残っているけれど、これからの自分の人生で恋をすることなんてあるのだろうか。
いまは、ただ、我が子の成長を見守り、杏が立派に育つまで……それしか考えられない。