☆第七十二章 あたたかい涙、あなたの幸せを願います。
荒波がたって、白いしぶきが上がっている海は、決して穏やかではない。冬が近づいている。カモメが数羽、上空でとびまわり、ざあああっという波の音とカモメの鳴き声以外殆ど何も聞こえない。
すべてを知ったあき婆が、わたしの様子までおかしいことに気づいて、たまにはあんたも気晴らししておいで。と杏と星弥くんを預かってくれていたので、どこへ行こうか決めずにぼんやり電車に乗って、南下した。大阪の最南端の海と遠くに関西国際空港が見える。
わたしも、次の誕生日を迎えれば三十五歳になる。
「歳とったなぁ……」
思わず独り言が出てしまう。今日は土曜日だが、こんな季節の海には誰もやってこないのか人気はない。随分遠くまできてしまったが、あたりに人気はない。
そろそろ帰らなければ、いつまでもあき婆に頼るわけにはいかない。
まずは麗奈と相談しよう。あの家を出ていくことを想定して、ある程度住む場所を決めて、オフィスはどうしよう。環名ちゃんが自分の家をオフィス代わりに使ってもいいと言っていたが、洋室六畳の部屋で三人。しかも薮内さんはまだ働きはじめたばかりで大きな大人三人が働くには、ちょっと狭いであろう。
薮内さんからの告白も、どうしたらいい。わたしは自分の心に素直になった方がいいのだろうか。あき婆に相談しても麗奈に相談してもそう言うだろう。
例えば、わたしと薮内さんが両思いになったとして、本当に幸せか。
一緒に働いている環名ちゃんに毎日、気を遣わなくてはならないのか。気を遣う必要ないと言われても、性格がサバサバしているわけでもない、ウジウジおばさんのわたしが、そう簡単に割り切れるのか。
海まで来て一時間。身体がすっかり冷えるまで波を見つめていたが、答えが出たような出ないような。
とにかく、家を出ていくなら新しい住処を決めなくてはならないし、まずはそちらからどうにかしよう。ということだけ決めた。
家に帰ると太陽が西の空低くにあり、影が長く伸びた。イチョウの葉はすっかり散って、あたりの落葉樹は昨年落とした葉の代わりに蕾をつけている。
家の明かりを見て、少しほっとする。
「ただいま」
「おかえり」
おかえりっていう言葉が身に染みた。この家を出ていくと、杏と二人きりで、保育園から帰宅しても、おかえりと言ってくれる人はいない。
麗奈のつわりが割とひどいので、すっぱい食べ物が食卓に並んでいた。
大根なます、トマト、お寿司、そして妊娠中なぜか食べたくなるフライドポテト。
「わたしは用事があるから帰るよ」
ちゃっかり料理だけ作って、空気を読んであき婆が帰った。
食卓について、麗奈に切り出す。
「麗奈」
「琴ちゃん、あのね引っ越し……」
「わたしが出ていくから」
「え……」
ダイニングテーブルの上でわたしと麗奈の目線が重なる。
「あ、違うの。あのね、有馬さんが病院のすぐ近くに住みたいからそこで一緒に住もうって」
「えっ……」
「琴ちゃんには本当に申し訳ないけれどこの家に残ってくれないかな?」
「麗奈、それって……」
この間、聞いた。有馬さんが勤めている病院はここから電車で六駅いったところで西区ではない別の区になる。
「勝手でごめんなさい」
麗奈が頭を深く下げる。
「麗奈……頭あげて、何も悪いことなんてしていないから」
ゆっくり顔をあげた麗奈の目に涙が溜まっている。
「幻滅したよね……?」
「そんなワケない。おめでとう麗奈」
笑顔、ひきつっていないかな。赤ちゃんが出来たことは本当に幸せなことなんだ。麗奈の新しい人生がこれから始まる。
「琴ちゃん」
麗奈がぐすっぐすっと泣き出した。
「麗奈……」
わたしは椅子から立ち上がって麗奈の元へ行って彼女を抱きしめた。
「幸せになってね」
「琴ちゃん、ありがとう、ありがとう」
麗奈の身体はとてもあたたかい。一緒に暮らした日々は本当に楽しかった。絶対ぜったい忘れない。
「赤ちゃん産まれたら会わせてね」
「もちろん……・毎日でも会いにきて」
「星弥くんにも会いたい。この家、使っていいの?」
「誰かが住んでくれた方がいいから…・…」
あの時を思い出した。わたしが鬱状態で、杏を抱っこしてベランダへ出た時、スマホが鳴った。麗奈はやっぱりエスパーだ。あの時、電話をかけてくれなかったら、彼女が助けてくれなかったら、わたしはもうこの世にはいなかったのかもしれない。
「麗奈、ありがとう。本当にたくさんお世話になったね」
「こちらこそありがとう」
わたしの目にも涙が溢れる。大切な親友の幸せを願う。