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第七十四章 僕の育ったはなし。

☆第七十四章 僕の育ったはなし。


「僕には両親がいないんです」


 長い手足、ごつごつした指、柔らかい髪の毛、骨ばった背中、腕についた筋肉。男の人だと思った。わたしの左手と彼の右手が繋がれている。


「事故で五歳の時に二人とも亡くなってしまって、交通事故で僕だけ助かったそうなんだけど記憶がなくて。父の顔も母の顔も覚えていません。唯一覚えているのが、タバコの臭いだけ」

「あ……前に言ってましたね」


 彼の布団のシーツから、ふんわり爽やかな香りがする。これは何の香りか尋ねると、シャンプーの香りだと思うと。ああ、確かにお風呂場がそんな香りだった気がする。


「ヘビースモーカーだったと話を聞きましたが、嗅覚っていうのは意外と記憶に残るのかな。それだけしか覚えていないんです。それで僕は児童養護施設で育ちました。親がいなくても友達はたくさんいて、割と楽しかったけれど、十八になったらイヤでも出ていかないといけないから……。高校を卒業したあと、郵便配達の仕事をしていたのです」

「えっ、じゃあ郵便局に就職したってこと?」

「正社員でなくて非正規社員で。他にも求人は色々あったのですが、どうしても気に入るものがなくて。あの時の僕は本当にわがままで傲慢でした。初めて社会に出て、一人になって、それまでお世話をしてくれていた養護施設の方もいない、仲間たちもいない。すごい孤独感に苛まれていました」

「……」

「正社員になった方がいいと勧められたけど、唯一興味がわいた仕事が郵便配達で。でも非正規だから、時給制でね。安いアパートで暮らし始めたんだけれど、寂しさから、軽度の鬱病になってしまって」

「わたしと一緒だ……」

「え、そうなんですか? それで一度仕事を辞めてしまって、鬱は治ったのですが、いざ、就職活動をしてみたら、見事に十八社落とされてしまって……社会をなめていました。仕方なく、派遣会社に登録して、日雇いバイトなどを繰り返していて、ある自動車の組み立て工場で一年間の契約で働くことになったのですが、景気の悪化で派遣切りにあって。当時、住んでいたのが社員寮でああ、家があるのは良かったのに、当然派遣を切られた時点で家も失ってしまって。自暴自棄になって、ぼーっとしているうちにお金はどんどんなくなって、仕事を探す気力もなくなって。でもお腹はすくんです。当たり前ですけどね。寒いからあったかいものが食べたい、飲みたいって思うし、人間って、こんな落ちぶれても、まだ貪欲なんだって自分自身に呆れ返っていました」


 彼の身の上はなしを聞くのは初めてだ。杏を預けっぱなしだけれど、あき婆がせっかく用意してくれた時間を大切に過ごそうと思った。


「そんな時、あなたがくれた紅茶が本当にあたたかくて、身に染みて……。涙が止まらなくなって。自分はこんなところで何やっているんだろうって。ああ、そうだ。恩返しをしよう。立派になって、ちゃんとした仕事について、あなたを探し出して、恩返しがしたいって思っていたのに。いつの間にかあなたのことが頭から離れなくなって……。僕はまだ、保育士の資格をとれてもいないのに……。また甘えてしまった」


 わたしは空いている右手で彼の髪を優しく撫でた。


「大丈夫ですよ、甘える時はきっと……甘えていいんだと思います」


 薮内さんの目が潤んでいる。


「僕は、本当は弱虫で孤独で、意気地なしで、甲斐性も金も……見てのとおり何もありません。でも、あなたを見つけることができた」

「……保育士の試験はいつなんですか?」

「四月です」

「えっ⁉️」


 ムードもへったくれもない、大きな声が出てしまった。今は三月の末である。


「すみません、中学とか高校とかの受験みたいに、冬に試験があって合格したら、とか思っていました」


「国家試験なので。前期と後期があります。筆記と実技の両方があるのですが四月にまず筆記試験があります」

「そうなんですか……難しいですか?」

「そうですね。でも、絶対合格します。早ければ来年の末くらいから働くことができれば。今みたいに日雇いバイトや派遣やらで繋いでいるのは不安定にもほどがあるので」


 薮内さんがわたしの髪をゆっくり撫でる。


「自分は……不幸だと思っていました。親はいないし、実家もない。世の中の人たちは困ったことがあったら、実家や親に頼ることができるのにどうして自分にはそれがないんだろうって」


 そうか。わたしも鬱の時に実家を頼った。いつだって、心のどこかで父親と母親がいてくれるという安心感が必ずある。それがないってどんな気分なんだろうか。


「でも、実家があっても頼れない人だっていますよね。実際」


 わたしの父と母が物わかりのいい人でよかった。


「今から思えば、僕なんてまだマシだったんだな。って思います。養護施設にいる子どもたちはみんな、それぞれが事情を抱えていました。多かったのが虐待で、親と離れ離れになっているケースです」


 その時、ふと波琉ちゃんと波子さんの姿が目に浮かんだ。二人はいま、どこでどうして暮らしているのだろうか。


「親がいても一緒に暮らせないケースの方が、辛いんじゃないかと思います。ある意味、二人とも、もうこの世にいないワケだから、割り切ることができていたので」


 薮内さんの手が暖かい。ぎゅう……と握る。もう片方の空いた手も添えて、両手で彼の右手を優しく包みこんだ。大きな手、骨ばっていて、指が長い。


「あ、あの……」


 好きですって言おうと思った。でもなんかうまく言えなかった。その時、環名ちゃんの顔がちらついた。ああ、わたし、こんなところでこんなこと、していていいのかな。

 薮内さんを独占していいのだろうか。まだ迷いが生じる。


「どうしました?」

「あ、いえ……」


 わたしが目線をそらすと、彼は悲しそうな顔をしているのがわかった。

こんな時くらい、正直に話ができなくてどうする。もうすぐ三十五にもなるっていうのに。


「あの、島崎さんの気持ちが……。環名ちゃんがあなたのこと好きなので、今更だけど、こんなことしていていいのかなって、罪悪感を覚えてしまって……」


 彼の顔をチラリと一瞥する。やはりちょっと悲しそうな表情をしている。


「前田さんは、僕のことを受け入れてくれた……と思っていたけど、もしかして、無理やりだった?」


 わたしは全力で首をふった。


「あ、あの……」


 勇気を出せ、前田琴。


「あなたのこと、好きです」


 最後の好きですはエアコンの微風にかき消されそうなほどの声だったが、でも言えた。


「嬉しいです……。夢みたいだ」


 彼が再びわたしを抱きしめた。大きな背中、広い肩に手をまわした。愛しい気持ちが溢れてくる。


 環名ちゃん、ごめんね。わたし、この人のことが好きだ。


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