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第64話 幸せだった


「蘭お前……なぜ、ここに……」

寝台に横たわっていた老師がゆっくりと身体を起き上がらせる。

最後に見た時よりずいぶんやせたように思う老師に、目頭が熱を持ち、私はその細く小さくなった身体に縋りついた。


「皇帝陛下が行けって……っ!! 永寿様が、老師、病気って……っ!! だから景天様がっ、桃華饅頭、で……っ……!!」

「落ち着きなさい。意味不明なことになってる」

ボロボロと流れ始めた涙と嗚咽で口が回らないばかりか、思考がぐちゃぐちゃになった私に、景天様がため息をつく。


「はぁ……。老師、お久しぶりです」

「景天様。お久しぶりにございます。大きくなられて……。この度は蘭を預かっていただき、感謝いたします」

「いや、こちらも良いように使わせてもらっている。気にするな」

ちらりと景天様の紫紺の双眸が私を見て、ふっと笑った。


「永寿から、老師の容態について報告を受け、こちらへ参じた次第です」

「じゃが──」

「老師。あなたが蘭を思っている気持ちはよくわかる。蘭の目的の為、そちらに集中すべきと考えられたのでしょう。ですが、蘭はどうでしょう?」


景天様が再び私に視線を向け、真剣な様子で続ける。


「蘭は、突然に両親を失い、突然に自分の知らぬところで唯一の肉親である姉を失った。何も言えず、顔を見ることもできぬままの別れは、心だけが取り残されてしまうものだ。老師、あなたは蘭に、またそんな思いをさせたいのですか?」


ずるい。私のことをそんな風に思ってくれていたのかと、驚きで涙と嗚咽が引っ込んでしまったじゃないか。

心がぎゅんと締め付けられるのが何とも癪だけれど、少しだけ落ち着いた感情をもとに、私は再び老師に向き直った。


「老師。一緒にいさせてよ。……家族でしょ?」

「蘭……」

コツンコツン──……。

窓辺から格子窓を叩く音が響く。


「!! 猫々!!」

音の方へと視線を向けると、そこには格子の隙間からこちらを見つめる真っ黒な瞳。──カラスの猫々だ。

都から追ってきたのか。


「猫々も、老師の傍にいたいってさ」

「お前たち……」

老師は目を細めると、その皺だらけの顔をくしゃっとして笑った。

「まったく……。しようのない子らだ……。…………ありがとう」

うっすらと浮かんだ涙がろうそくの明かりに照らされてきらりと光る。

素直じゃないところは私とそっくりだ。


「老師、これを」

景天様が思い出したように懐から皇帝陛下から託された書簡を取り出す。

「これは……」

「兄──皇帝陛下からの文です」

「陛下からの……?」


老師は景天様からそれを受け取ると、すぐに割印を開き、真剣な様子で目を通していった。

すると──。

「っ……!! あぁ……っ、あぁっ………なんという……っ!!」

とどまっていた老師の涙が、頬を伝った。


「あぁ……っ、そうか……そう、なのか……っ……!!」

つぶやきながら次から次へと頬を流れる涙は、止まることも知らず、ただただ流れ続ける。


「ろ、老師!?」

「一体文に何が……」

初めて見る老師の号泣に戸惑い狼狽える私と景天様。


老師はただただ涙を流し続けた。

そしてしばらくしてから、ようやく涙をぬぐい、景天様に言った。

「景天様、皇帝陛下に感謝をお伝えくだされ」

「あ、あぁ。確かに」

景天様の返事を聞いて老師は頷くと、寝台横の燭台へと手を伸ばし、その赤く輝くろうそくの火へと巻物をくぐらせた。


「!?」

「老師、何と──っ」

燭台の皿の上で燃えて黒くなっていく巻物。

皇帝陛下からの大事な書状が、無残にも灰になってしまった。


「皇帝陛下から、最後に『読み終えたらすぐに燃やすようにとのご指示が書かれておった。これは、今は鷲があの世へ持って行かねばならん話。許せよ、蘭』

「皇帝陛下が……?」

知られてはならない、読んだらすぐに消さなければならない話って……?

「はぁ……。相変わらずあの人はよくわからない」

景天様がため息をつく。


「ごほっ、ごほっ……」

「老師!!」

突然咳き込んだ老師の背を、私は慌てて撫でる。

こんなに小さかっただろうか、老師の背は。

あの頃は、もっと、もっと大きく感じたのに……。


「すまぬな、蘭」

「…………もう、だめなの?」

「……あぁ。ごほっ……!! もう、息をするのも、やっとじゃな」

「っ……。いつから……?」

「お前たちを拾う前、から」


そんなに前から……。

なのに私は、全く気付くことができなかった……。

毎日、一緒にいたのに。


「麗羽様にお仕えして、あの方が亡くなって、しばらくしてから病を知った。ごほっ、ごほっ!! はぁ……っ、せめて最後はゆっくりとのどかな場所で余生を過ごしたいと、宮廷を去り、曽蓉江へ向かう途中、お前たち二人を拾った。…そうしたら、ゆっくりと余生を過ごすどころか、毎日が賑やかで、目まぐるしく、気づけばこんなにも長く生きておったよ」

「老師……」


幸せそうに語る老師の目が、優しく細められた。

「第二の人生、こんな娘たちができたんじゃ。……本当に、良き、人生じゃった」

「っ……」


血の繋がりはない。

だけど確かに、老師は私の家族だった。

私は零れる涙もそのままに、細く、しわしわの、あたたかい老師の手を、ぎゅっと握りしめた。


そして明け方、老師はそのまま静かに息を引き取った──……。














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