「……ホルン」
土気色の貧相な花壇を見渡せる、ガゼボの内側で隠れるようにして蹲る彼女を発見した俺は、掛けるべき言葉がすぐには思い浮かばず、その繊細な銀糸をまとめて作られたような髪をぽふぽふと撫でつけることにした。
そして寄り添うように隣に腰を下ろす。そんな俺を彼女は嫌がらないでくれる。
聞きたいことはある。外は寒いから屋内に戻りたい気持ちもある。
それでも、すぐに質問したり、連れ戻そうとしたりすることはせず、ただぐすぐすと鼻をすすって泣きじゃくる彼女の心が落ち着くまで待ち続けた。
「……なんだかっ、よく分からないです……っ」
ぐちゃぐちゃな感情を手放すようにホルンはふと、そう打ち明けてくれた。
そっか、と俺は相槌を打つ。彼女の悩みに寄り添いながら、解決に持っていけるように考え込む。
「御姉様も、信じていない顔をしていました」
……『信じていない』というよりは『戸惑い』であったように感じるが、確かにスルーズというワルキューレの話をしたとき、この二人の精神的距離はグッと離れたように思えた。
長姉として見てきた妹としてのスルーズと、
末妹として見てきた姉としてのスルーズに大きな乖離があったみたいだった。
ホルンはどこか憎たらしげに吐く。
「ずっとそう。私の言葉は、誰にも信じてもらえないんです。末の妹だから」
「……それは、悲観的になりすぎだ」
「しぐまには分からないです」
ばっさりとそう返されて、俺は何も言えなくなる。確かに俺は一人っ子だし、綾姉と俺の関係は普通の姉弟のそれでもないと分かっている。
俺が押し黙ったのを察知してか、はっと気付いたようにホルンは「ごめんなさい……」と弱々しく謝罪した。
俺が不器用なばかりに、彼女に気を遣わせてしまったんだと痛感する。
「俺もごめん」
「……分からない。分からないんです、本当に。何も。何もかも」
嗚咽を交えながら、ホルンはぽつぽつと語る。
「だって私、カーラよりずっと強くて、スルーズ姉様よりずっと早くて。なのに、馬鹿にされていたんです」
――その背景があると知ったとき、オリヴィアさんの打ち明けた実力主義社会時代のワルキューレは、どれほど彼女の心を救う幻想だったかに思い至った。
「昔から、私はそうなんです。学舎で授業を受けているときも、体力試験のときも、私っ、ずっと末妹だから馬鹿にされ続けてきて。誰も私の実力を認めてくれなくて、褒めてくれなくて、疑って、いたずらされて、都合が悪いと全部私のせいにされて……」
苦い顔をする。あの悪辣なカーラの表情がいまにも蘇る。あんな奴らに囲まれた学生生活がホルンにもあったのだとしたら、その凄惨さは想像に難くない。
爪が食い込むほど拳を握りしめて、怒りを紛らわす。
「私は、『グズ』で『ノロマ』だって。何度もそう言われてきました。私はみんなほど要領が良くなくて、だから気が利かない。お茶を汲むこともできない。働き者じゃない。だから足を引っ張る愚妹だって。それで、本当に愚妹になっちゃって……」
一度は乗り越えたはずの巨獣出現時のヘマにまで思考が遡る。ぐじゅぐじゅの顔を隠すように俯いて顔を埋めるホルンの背を、俺は優しく何度もさすり続けた。
「でも、そういうものだと思ってたから」
「………。そうだな」
「末の妹だから。みんなより一番立場が低いから。だから仕方ないやって、そう思って諦めてたのに」
「……うん」
「でも実際は、本来無かったものってことですよね。御姉様の時代なら、私は誰にも馬鹿にされなかったってことですよね?」
問いかけられて息を呑んだ。
残酷な現実だな、と思った。
これまで彼女が受けてきた苦しみは、本来必要なかったもので、全ての腐敗の原因が分かってしまった。
知るべきだったのか、知らないほうが幸せでいれたのか、それさえも分からない。
「みんな、怖いです。どうしてそんなに冷たく当たれるのか、分からないです。私悪いこと何もしてなかったのに。みんなが必要以上に厳しいから、余計に緊張して、自分でも実力が出せてないって分かってて、だから私はダメな奴なんだってどんどん思い込んじゃって……」
ホルンの抱える姉妹間の溝は、根が深いなとは常々感じていたが、これほどまでとは思わなかった。
自然と顔が渋い顔になる。聞くのだって苦しい話だけど、でも受け止めてあげたいなと思う。
「お掃除だって褒めてくれましたけど、あれだってさせられてたからです。誰にも、何も教えてもらえませんでしたけど、私は自分で勉強してきたんです。それでもやっぱり、私は知らないことが多くて、今日は御姉様の目が怖かったです。そのうち、失望されちゃうんじゃないかって」
どうだろうか。そんなことはないと思う。オリヴィアさんは他のワルキューレとは全く違う性格の人だ。
ホルンが怯えてしまうのはいままでの境遇があるからこそで、いまこの場所にホルンを傷付ける奴はいない。
それが伝えられたらどんなにいいかと思うが、離反してからの彼女しか知らない俺の言葉では彼女の心に触れられないだろう。
オリヴィアさんも、俺もそう。
これまでのホルンの苦しみを全て理解してやることはできないのだ。
「ホルンは、よくやってると思うよ」
だから、俺は俺の知るホルンの話をしようと思う。
「俺はホルンが戦い続けているのを知ってるし、努力しているのも知ってる。カーラやベイタの言葉に葛藤して、それでも前を向いて……例え嘘でも虚飾でも、俺の励ましの言葉を受け止めて少しでも元気な顔を見せようとしてくれたホルンの気持ちは、本物だろ。俺は、お前の健気さを知ってる」
そう、俺は、俺たちは百点満点のホルンを望んでいるわけじゃない。こういうと『それも失望なんじゃ?』と思うかもしれないが、正確には、ホルンが成長途中の身であることを理解している。
だから全てを望まない。できることを精一杯やろうとして、直向きに努力するホルンを知っているからこそ、役立てなくても気にしない。全てを許せる。
ホルンのことを応援してやれる。
妹に持つ感情って、本来これが正しいはずだろ?
「いいか、お前は末妹だ。だけどそれは悪い意味じゃないんだ。いままでの姉がどうかしてただけだ。情報を回してもらえないのは酷い話だけど、知らないことがあるのは当然だ。実力を認めてもらえないのも酷い話だけど、『こいつは私より弱いくせに』って内心で嗤ってやればいいんだ。相手がどんなに滑稽か、お前だけが知っていればいい」
ホルンは優しすぎるのだ、きっと。
カーラの言葉は間に受ける必要がないのに、ホルンは馬鹿正直に受け止めてしまう。だから気にしてしまって負のスパイラルに陥る。
本当は周りなんて関係ない。ホルンはカーラよりも強くてスルーズよりも早い。それが自分でも分かっているのならば、こいつは私より弱いくせに何を言ってんだ、こいつは私より遅いくせに何を言ってんだって、心の中で威張ってやればいいんだ。
境遇そのものは変えられなくても、心の持ち様はいくらでも変えられる。
醜いアヒルの子は大人になるまで気付けないけど、自分はシンデレラだと信じることは大事だ。
……それに。
「それに、いまは俺がいるから」
その言葉にホルンは顔を上げ、こちらを振り向いた。
「いまは周りに嫌な奴もいないから。俺の前では、本当のホルンであってほしいと思う。できることもできないこともあっていい。俺はありのままのホルンを受け入れる」
思えば、最初からずっとそうだ。
ホルンが何者かも分からないときから、俺はホルンに向き合おうとしてきた。むかつく瞬間も苛立ってしまったこともあるけど、少しずつ心を通わせてきた。
そのスタンスはいまでも変わらない。
いまの俺にとって、ホルンは守りたい存在だ。
「……う、うぅう〜っ……!」
堪えきれず、ぶわっと泣き出しながら俺に抱擁を求めてくるホルンのことを慌てて受け入れる。予想外の行動に困惑はしつつ。
それでも、ぎゅぅう、と強く抱きしめてくれる彼女の気持ちは本物で、ずっと誰かに甘えたかったんだな。と思った。
「大丈夫、大丈夫だ」
ホルンの心を苦しめる呪縛は、この先少しずつ、雪解けのようにほぐれていけばいい。