その後、糸が切れたみたいに眠ってしまったホルンを四苦八苦と抱き抱えながら俺は屋敷に戻った。
腕の痛みは辛かったが、いまはなんてことなかった。
裏口から戻るとすぐに迎えてくれたシグルドさんが、ホルンのことを譲り受けてくれる。二階の、夫妻がわざわざ俺たちのために用意してくれたという二つの空室のうちの一つに、彼女を寝かしつけに行った。
「こんなことになるなんて思わなかったわ……」
ひどく申し訳なさそうな顔をして落ち込むオリヴィアさんと俺は団欒室に戻り、その場に置かれたままの冷めたコーヒーを一口飲んで喉を潤す。そして、先ほどいったい何があったのかの話を共有しておくことにした。
「そう……」と気弱に返事するオリヴィアさんは、急いたことを後悔しているみたいだった。
「私があの子のことを追い詰めてしまったのね」
「どうでしょう、遅かれ早かれ向き合わなきゃいけないことだったとは思います」
目を背けたままではいられない、ホルンの身にのしかかる重要な課題だった。
それは交差点での戦いでも確認できていたことだ。カーラだけじゃなく、ベイタもことごとくホルンの弱い部分を突いて嗤ってくる。それがまるで姉の権利であり、妹の義務だと言わんばかりに。
ホルンはずっとそうした扱いを受けてきたのだろう。
彼女には適度なガス抜きが必要で、今回は悪いタイミングが重なってしまっただけだと思う。
「できれば、オリヴィアさんはいままで通り振る舞ってください」
「?」
俺がそう頭を下げると、オリヴィアさんは不思議そうに首を傾げた。
俺は俺の考えを発表する。
「ホルンはあれでいて聡いやつなんで、変に気を遣ったらすぐに気付いて、自分をさらに責めると思います。だからこそこれまで溜め込んできたんだと思うから」
大したわがままも言えず、周りの人の顔色を窺って生きてきたような人間は、鋭い洞察力と激しい思い込みを持つようになる。それを解きほぐすには精神のゆとりしかない。
俺も子どもの頃両親を失って間もなく、じっちゃんに引き取られてしばらくするまでは、親戚の奇異の眼差しがやけに苦しかったのを覚えている。
ホルンほどの境遇にあるわけじゃないが、それでも自分なりに咀嚼して共感することは大事だと思う。
少しでもこういった気配りが、ホルンの心を救うことを願って。
「あと……、悪く思わないでやってください」
そんなことをお願いするべきかどうかは気が悩んだが、俺は頼ませてもらうことにする。
しかし、その言葉にはオリヴィアさんは、はにかむように笑って言った。
「それは大丈夫よ。あの子を悪く思うことなんてないわ。目線の違いがあることも理解しているし、時の流れが残酷なのも承知してる。スルーズちゃんのことは気になるけど、あの子が嘘を言っているとも思わないもの」
その穏やかな声に俺はホッとした。
やはり、彼女は他のワルキューレとは大きく違うものを持っているみたいで、信頼できると感じる。
「いつの世も恐ろしいのは身近な兄弟だ」
そこに二階から降りてきたシグルドさんが合流した。
「上の者が下を利用し、下の者はへりくだり、その更なる下を憂さ晴らしに使う。もっとも下の者は捌け口がなく。つけ上がり、傲慢になった上の者に、狡猾な下の者の顔色など見えない」
「わっ、私は違うわよぉダァリンっ!」
「君は身近な妹が狡猾すぎたな」
ぷりぷりと抗議するオリヴィアさんを見て、柔和な笑みを浮かべたシグルドさんはなだめるようにその髪に触れる。
嬉しそうに上目遣いで見上げるオリヴィアさんの顔は、ただの乙女のそれだった。
「………」
俺は少し気まずい思いで頬を掻く。
そんな俺の視線に気付いて、こほんっとオリヴィアさんは咳払いをする。
「ま、まあ、いまはゆっくりしてもらいましょ。ここに来るまで二人はたくさんの大変な目に遭ってきたのでしょう? ホルンちゃんもシグマちゃんも、しばらくはここで静養するべきだわ」
その申し出に深々と感謝する。俺たちの状況を理解していて、ベイタにも反撃できる力を持つ方々が後援者になってくれたのは改めて大きなことだと思った。
どこか思案げに目線を宙に向けたオリヴィアさんは、ハッと思いついたようにこんなことを提案する。
「そうだわ、明日は何か気が変わることをしましょうか! 動物園とかどう? きっといいリフレッシュになるわ」
「あぁ、いいかもしれないです。前に遊園地に行ったとき、ホルン、年相応みたいにはしゃいでたから」
俺とシグルドさんの顔をそれぞれ見渡しながら、オリヴィアさんは楽しそうに話すものだから、あっという間に予定が組み上げられていく。
先ほどまで冷え切っていたムードが、明るく朗らかに塗り変わっていったような気がした。
「そうね、遊園地もいつか行きたいわ。二人はどんなところに行ったのかしら? 聞いてもいい?」
先ほどの出来事のせいで詮索行為には慎重になっているのだろう、窺うようなオリヴィアさんの分かりやすさに苦笑して俺はこともなげに話す。
「みなとみらいの近くにある遊園地で……」
三人だった話をすると、綾姉に興味を持たれたのでその話もする。オリヴィアさんは日本のことに強く関心があるみたいで、どの話にも好奇心を持ってくれた。
もはや世間話の延長線上で、ここに来るまでの旅のこと、始まりのこと、俺が学生だったことを話す。
「そう……そうだ、俺もこの先どうするべきか悩んでいて」
うちの高校三年の三学期はほぼほぼ自由登校の状態だ。部活動もいまは参加していない。とはいえ全く通学しないというわけにもいかず、友人にも心配をかけたままだし、来月初めにはついに試験もあるわけで……。
いまはホルンと離れないべきだろうとは思いつつ、ホルンにとって安全な場所は夫妻のもとでもあって。
先のことを考えると、いつまでも俺がここにいるのは難しいのだ。
「ここから通えばいい」
「確かにそうよ。できるできる」
「えっ?」
空気も読めず暗い顔をしてしまっていたら、夫妻にはあっけらかんとそんなことを言われてしまい、俺は間抜けた顔を浮かべるしかないのであった。