動物園での一幕から丸一日が経過した。夫妻に引き入れられてからというもの、不思議なくらいワルキューレ側からの動きがなく、世間では魔物出現の噂こそあるが取り立てて騒ぎ立てるほどの重大事件にはなっていない。
比較的、平穏無事な時間が流れている。
それに加え、長くあとを引いていた腕や腹部の痛みも、オリヴィアさんの治療魔術の甲斐あってようやく完全回復することとなった。
万全の体調を取り戻した俺は、この機会に、以前夫妻が言っていた『ここから高校に通うやり方』というものを試してみることにする。
そのやり方とは、言わずもがな――ゲートだ。
「こんなに魔術を普段使いしていいんですか?」
「よくはないけれど、こんな時代だし……。それに困っているのなら、積極的に使っていくべきだわ。もちろん悪用は厳禁。誰にも見られてはいけないけれど」
話し出しは指先をつんつんと突き合わせながら後ろめたそうにしつつも、最後のほうでは真っ当な理由を付けてオリヴィアさんはそう説明してくれる。
地元・宮城県登米市と東京稲多市をゲートで繋ぐ。まるでどこでもドアのようなノリだが、実現できてしまうのがルーン魔術の恐ろしいところだ。
ふいに気になって聞いてみたが、海を跨いで外国へ行くことも理論上は不可能でないらしい。
現代では消費魔力量のコストパフォーマンスが悪いのと、何かトラブルが起きた際に不法入国などを疑われるリスクを天秤に掛けたら、正規の手続きを踏むほうが『気兼ねない』のだそうだが。
「山によく行っていたシグマちゃんなら、人目につかない場所もいくつか知っているのよね」
「まぁ……、地元猟師とバッティングさえしなければ」
ゲートを設置するにあたり、もっとも注意すべき点は魔力残滓を追跡されることだそうだ。
ワルキューレや魔物、シグルドさんをはじめとする特殊な才能がある者には魔力を視認することができ、その濃度を知覚することができる。ゲートそのものは閉じていても設置地点にわずかな痕跡が残るため、下手に勘付かれ、待ち伏せされるリスクを避けるには複数のポイントを用意してランダムに開くしかない。
「ここだけ不都合を強いるけれど、安全のためにそこは徹底して頂戴」
「こちらこそ、俺のわがままなのにありがとうございます」
そんなわけで、まずは実家からもそれほど離れてはいない、近くの山のなかにゲートを開設してもらった。
そして俺は単身、里帰りする。
「おお……」
山の中腹では、木々の隙間から地元の景色を見渡すことができる。この地に帰ってくるまで、長かったような短かったような。
久々にじっちゃんと顔を合わせると思うと、どんな顔をしようかと極度に緊張するものがあって、一息入れてから俺は下山することにした。
慣れ親しんだ道を、もはや遠い光景のようにどこか想い馳せながら歩む。
田舎の、集落の、少し外れた高台のほうにある古びた木造の家屋。
ここが幼少の頃から過ごしたじっちゃんの家だ。
数週間前、ベイタが突撃してきた縁側は新品の木材で仮設の補修工事が施されていた。あの日はおちおち確認する暇もなかったが、実家が半壊した状態から立て直す途中の姿を見るのは心が痛む。
軽トラがあることを確認し、玄関前まで移動した俺は、躊躇いがちにようやくインターホンを押す。
すりガラスの向こうにぼんやりと人影が現れる。
じっちゃんは警戒した様子で問いかけてきた。
「……誰んだ?」
「俺だよじっちゃん、ただいま」
すると、ガラガラッと勢いよく扉が開き、目を丸くしたじっちゃんが俺と顔を見合わせる。口うるさい俺がいないから身だしなみにもあまり気を遣わず、無精髭を伸ばしたじっちゃんの少しだけ疲れた表情。
――だけど、俺を見てほっとしたような顔。
「……!」
そんなじっちゃんの様を見て、俺もたまらず胸が締め付けられるような思いになりながら、高ぶる感情のままに踏み込んで抱きつこうとした。
ペシンっと勢いよく頭を叩いて出迎えられた。
「いてぇ!」
「元気にしてだがや!? 志久真ぁ!」
そして、その後に抱き締められる。
まるでDV彼氏みたいな飴と鞭の使い方だ。
散々なその出迎えに思わず苦笑してしまいながらも、やっぱり嬉しくて、じっちゃんは昔からこんなだったなと思い返しながら俺は帰省することになった。
畳とテーブル。使い古されて糸のほつれた座布団。型落ちのテレビと物で溢れかえった棚。祖母、両親と繋がれる仏壇。
とうに新年を迎えているカレンダー。
安心感を感じるその居間で、慣れたようにくつろぎながら、じっちゃんと俺は久々に会話をした。
「入院したって聞いだときは、大丈夫かねって心配したもんだっちゃけど、綾ちゃんが『問題ねぇ』って伝えてくれっからそったに心配はしてねがったよ」
「こんなに訛りきつかったっけ……」
数週間ぶりに聞いた強めの東北弁に苦笑する。いや、意味はちゃんと伝わっている。ただ、『そうだったそうだった』と徐々にその感覚を取り戻しながら、じっちゃんにはあれから何が起きたのかを一つ一つ、丁寧に話した。
じっちゃんは静かに耳を傾けてくれた。
「そう、だからスマホが壊されちゃって、連絡を取ることが難しかったんだ。心配かけてごめん」
「んだばあとで買い行っか?」
「うん。連れてってもらえると助かる」
突然家を飛び出すことになって、持ち金が少ない状態が続いていたが、実は俺には口座が二つある。大学入学費用兼両親の遺産金としてとっといてある貯金用口座と、高校生になってから開設した普通口座なのだが。
貯金用の口座の通帳とカードは家に置いてきていたので、これで新しいスマホを手に入れとこうという算段を付けていた。
「おめはどうやって帰ぇって来たんだ?」
「ああ、それは……」
かくかくしかじかと。詳細は伏せたものの、あまりにも荒唐無稽で魔法のような話だから、それを聞いたじっちゃんは高笑いをして「おらも経験してみてぇなぁ!」と楽しげなリアクションを見せてくれた。
流石にオリヴィアさんからの言いつけがあるので体験させてあげることはできないが、「分がってる分がってる」とじっちゃんはこちらの意を汲んで深くは追求しないでいてくれる。
改めて感じる、じっちゃんはどこまでも俺の味方だ。
「それでな、学業も再開させようと思ってて、しばらくは行き来するつもりだ」
「おぉそうかそうか! それはよがったな」
「んで、その……」
そこで俺は初めて言い淀む。じっちゃんは味方で、嫌がるはずはないと言うのは重々承知しつつ、なんだか子どもの頃に戻るようなお願いで気恥ずかしくなってしまったのだ。
ぽりぽりと頬を掻きながら、甘えてみる。
「今日はこっちに泊まってもいいか?」
じっちゃんはきょとんとした顔をした。
一拍遅れて、
「当たりめぇだがよっ!」
とじっちゃんは嬉しそうに口にしてくれたので、俺も嬉しくなって笑顔を返した。
その日の夕食は少し豪勢で、久々に、俺は俺の布団で眠りにつく。