その後、ラーズグリーズからこれまで立て込んでいた理由を簡単に説明してもらった俺は、逸る気持ちをそのままに急いで屋敷への帰宅を目指すことになった。
「俺に警告したいことがあるって、そんなッ……!」
舌打ちを吐き捨てる。
近況報告として伝えられた話のなかには、いやいや……と思わず否定したくなるような、そんなとんでもない話が含まれていて、薄ら寒い悪寒を感じずにはいられなかった。
それらを実際に見て確かめるためにも、俺は急いでゲートポイントへと向かう。
――ゲルという名のワルキューレだ。
――お前を好んでいる。注意しろ。
「ワルキューレってのはなんなんだよっ……!」
茂みの奥に目立たないよう、ひっそりと隠されているゲート。下校時の姿のまま、実家を介さずに帰宅することにした俺は、ゲートポイントで足を止めると空間の切れ目を探すように何もないところを指でなぞる。
わずかな隙間を見つけ、指を食い込ませてこじ開ける。
閉じていたゲートの入り口がそこにはあった。
「ふぅ……」
息を整えて潜る。
向こうのゲートは屋敷一階の日光室に設置されている。その名の通り陽の光が入ることを目的とした半円状の間取りをした一室で、屋内でも穏やかなお茶会が楽しめるように設計されたレトロモダンな趣きある場所だ。
滅多に利用しないだろうとのことで、ここを通学用のゲートポイントにオリヴィアさんが設定してくれた。
「ただいまです!」
一日ぶりの帰宅になって、やけに緊張する。
廊下への扉を開け、恐らく皆がいるであろう団欒室へ駆け込むように帰宅の報告をした。
すぐにホルンが俺に気付き、ハッとした顔でこちらの胸に飛び込んでくる。さすがに迎え受けるわけにもいかず、ぴたりと足を止めて気遣った。あやうく抱きつかれてしまうのではないかと誤認するような突撃だった。
「おかえりなさい、しぐま……!」
その顔がやけに不安そうなものだから、やはりこちらでも何かが起きていたことを悟る。
同じように団欒室で、少しだけ暗い顔をしていた夫妻に事態の説明を求めた。
「さっき、ラーズグリーズから連絡が。こっちにスクルドが向かってるって」
「そう、シグマちゃんも事態は把握しているのね。少しまずいことになったわ」
いつになく強張った面持ちだ。俺はスクルドを見たことはないが、けっこう肝の座っている印象を受けるオリヴィアさんがここまで悩む姿を見て、いかに異常事態なのかを痛感する。
「ついてきてちょうだい」と手招きされ、俺は帰宅早々、表玄関から正面門まで全員で足を運ぶことになった。
「直々に来るなんて、あるんですか?」
「ないわ。彼女、外に出ることがあまりないはずだもの。きっと私との契約についての話ね」
「契約……」
掟破りであり長姉のブリュンヒルデは、ワルキューレと契約を締結することで追放処分となり、表向き処刑が免除されている。
その内容は不可侵条約のようなもので、ブリュンヒルデは今後一切ワルキューレの任務に関わらず阻害しないこと、人間界の成長にも関与せず、慎ましく〝ただそこにあるだけ〟を条件に契約を約束したのだそうだ。
ワルキューレの執拗な攻撃と恋人への危害を天秤に掛けたとき、不利な条件ではあるものの安寧を得るためにその条件を呑んだとしていた。
……そして、交差点での戦いで俺たちを守るために、彼女は意図的にその契約を破ったわけだ。
俺たちにも責任がある話。思わず、ホルンと繋いでいた手に力が入ってしまう。
案じるように横のホルンが俺の顔を伺ってきた。
「あれは……」
正面門まで近づくと、そこに立ち尽くす謎の人物に注目した。
深々とした藍色のケープを身に纏い、カカシのようにただ立ち尽くすだけの謎の少女。顔にはカラスのようなくちばしの付いたバイザーを装着しており、表情は見えない。
初めて見るワルキューレだ。
「スクルド様を迎え入れる用意は整ったのか」
「ええ」
オリヴィアさんが端的に答えると、少女の顔がこちらを向く。しばらくじぃーっと観察するような時間が続き、気まずくなった俺は隣にいるホルンに耳打ちするように質問した。
「こっ、こいつは何者なんだ……?」
「彼女の名はレギンレイヴ。執行部に所属する伝令使で、スクルド姉様が深く信頼する、直属の部下だとお聞きしています……」
息を呑むようにホルンに伝えられる。
伝令使・レギンレイヴ……。
その妙な身なりも相まって、どうしても警戒してしまう。身構えていると、フッと視線を外されてようやく息をついた。
「役者は揃ったようだな」
……俺を待たれていたのか?
「スクルド様をお招きする」
身を翻したレギンレイヴが、空間を切り裂くようにメスを入れた。さっくりと裂けた次元は閉じられたゲートを開けるときさながら、ここではないどこかと入り口を繋ぐ。
シグルドさんが正面門に手をかけ、開ける。
ゲートのなかから、まるでメリーポピンズのように日傘を差しながらふんわりと姿を現す小柄な少女がいた。
「……!」
これが、スクルド……!
彼女もまた妙な出立ちのワルキューレだった。
目元には包帯を当てがい、白金色の髪を肩甲骨下にまで伸ばした少女。位階の高い天使は純白の羽根の数が増えると言われるように、彼女が身に纏う衣服もまた、ホルンのようなワンピースを基調としながらも布数が多く、ドレスのような仕上がりとなっている。
優雅に足を下ろした彼女は、シグルドさんが開けた門を当たり前のように通り抜け、誰を一瞥するでもなく悠然と歩みを進める。
警戒して睨みつける俺たちを意に介したそぶりもなく、だ。
彼女の後ろにはレギンレイヴと、もう一人ゲートから姿を現した、フードを目深に被ったワルキューレが従者のように付き従っていた。
以上三名を迎え入れる形で、ピリついた空気のなか、俺たちは団欒室へ移動する。
「客人に対して紅茶の用意もありませんのね」
上座に座るスクルドに対し、対面にはオリヴィアさんと萎縮した様子のホルンが席につく。
俺とシグルドさんは人間であるため、配慮として離れた場所から会合の様子を伺う。
スクルドの後方には二人のワルキューレが金剛力士像のように立ちはだかり、ボディガードのような威圧感を醸し出していた。
開口一番、姑のようなことを口にするスクルドは、薄ら笑いを浮かべながらオリヴィアさんに語りかける。
「こういうとき、末の妹が気を効かせるべきだと思いませんか? ブリュンヒルデ」
「っ……」
ひくっとホルンが反応する。
黙って聞いていれば、ここでも末っ子いびりかよ。
「俺がやる」
「動くな人間」
ほぼ反射的に俺が一歩踏み出しながらそんなことを言うと、レギンレイヴが俺を牽制した。同時に隣に立つスクルドさんからも、手を前に出され静止を求められる。
歯噛みしながら干渉を諦める。
オリヴィアさんは、強かに口にする。
「思わないわ、スクルド。この家には貴女をもてなすような紅茶はないの。何も姉妹でお茶会をするためにここにやってきたわけでもないでしょう?」
窘めるような口ぶりを受け、スクルドの口角はつまらなそうに下がる。このわずかなやり取りだけで、どれだけスクルドが気難しい存在であるか想像に容易いものがあった。
「まぁ、その通りですね。はい」
優位を確信し、勝ち誇ったような態度だからこそ、場の空気やペースが全てスクルドの支配下にある状況。
オリヴィアさんさえも緊張した様子だからこそ、息の詰まるような苦しさが酸素の量を少なくしている。
「ブリュンヒルデ。貴女は約一千年前に我々と交わした契約を破りました。そのことについて、何か申し立てはありますか?」
「あるわ。厄災の獣が人の目に晒されて、終末も近付いたこの頃だというのに、仲間割れを起こしている暇なんてありません。いったい何を考えているのスクルド」
「はて。掟破りが重罪であることは、貴女が身をもって一番知っているはずではありませんか?」
「ええそうね、でも……」
言い淀むオリヴィアさんは、隣に座るホルンの顔をちらりと見る。
意を決したようにスクルドへ言い放った。
「私が生かされているのだもの。彼女にもその権利は与えられて然るべきよ」
呆れたようにスクルドは首を振る。
「ブリュンヒルデ。
「でも、貴女はそれをしないじゃない。でしょう?」
「……ええ。しかし、それは情ではありません。貴女が特別なだけで、末妹の代わりはいくらでもいます」
地獄のような三者面談に際し、俯くホルンが可哀想でどうにかなってしまいそうだった。
音が軋むほど拳を握りしめる。
静観しかできないのが辛い。
「いいえ、彼女は優秀だわ。もったいないくらい」
立ち向かえるのが、オリヴィアさんしかいない。
祈るようにその背中に全てを託した。
「巨獣を取り逃がした一番の要因は、分不相応にも討伐隊に参加した末妹の仕業と聞いていますが」
「それを信じるの? 貴女以外のノルニルなら、厳正に真実を見極めてくれるでしょうね」
ここで初めて、スクルドは苛立った表情をわずかに覗かせる。
「……どういう意味でしょう?」
「どういう意味も何も、いまの異界警備隊は腐敗している。『彼女は不当な評価を受けている』と言っているの」
オリヴィアさんが強くそう言い切ると、奥にいるフードを目深に被ったワルキューレが不服げな反応を見せたのがやけに気になった。