森はやけに静寂に包まれていた。ザバザバという滝の音だけが、いやに耳に残る。
ふらふらとした歩調で崖際まで駆けつけたホルンは、眼下のその異様な気配に思わず息を呑むこととなった。
「……!」
渾身の力技だったのだろう、体毛を無数の針のように逆立てて驚異的なイカヅチを招いた二匹の魔物は、目前の鬼神のような男に深く慄きを見せる。
その男の額には歪んだ角が対になって聳えていた。
そしてその男は、決して――倒れはしなかった。
普通の人間であれば骨すら残らない。皮膚は焦げ、肉は弾け、魂すらも焼き切れるような鉄槌をその身に受けてもなお、男は両足をしっかりと大地に突き立てて踏み留まる。
フシュゥゥゥ……、と全身から立ちのぼる蒸気が、熱された血と焦げた衣服の化学繊維の燃える匂いをぐちゃ混ぜにして風に乗せた。
その皮膚には亀裂が走り、肉の下では毛細血管にも似た紫電が浮かび上がっている。
だがその破れかけた肉体の内側では、常識では計り知れぬ再生の力がブチブチと音を立てて蠢いているようだった。
焦げた皮膚のその下から全身を形成する細胞が急速に生まれ変わり、焼け落ちた筋肉が瞬く間に再構築されていく。
―――彼のその見目は、やや若々しく変貌を遂げたように思えた。
それこそ、神秘の揺り戻しが成す一介の男の超再生能力。平時であればいまの衰えたシグルドが雷撃に耐えられるはずもなかっただろう、彼自身も世情の変化に少なからず恩恵を受けていて、神秘の時代から人の世を生きる〝怪物〟であるのだと露呈する。
彼は竜の心臓を食べた。それゆえ、人ならざるものとして変質し、今日まで生きる不死の英雄としてその実在性を潜め続けていたのだ。
「……一匹は我が
その瞬間だった。身を翻したシグルドは下から掬い上げるように後方の魔物の首を拳で鷲掴むと、さらにその胴体の下に体を潜り込ませ、空いた片手で腹を押し上げるようにして魔物の図体を担ぎ上げるとプロレス技のようにあっけなく投げ飛ばした。
どしんっと地面に叩きつけられて困惑する魔物。
「ギャウッ!?」
「!? ガァアァッ!」
一方、すぐに両前肢の爪を剥き出しにして襲いかかってくる二匹目の魔物には、その両肢を真っ向から掴み取ると、先ほどよりも倍の力を振り絞って難なく圧し返す。グルンッと体を捻りあげるようにして横転させられた魔物は「グァッ!?」と混乱を見せ、尻込みしたようにシグルドには一切の手を出せなくなっていた。
しかし、
「――
シグルドは容赦はしなかった。
爪を立て、腰だめにぐっと控えた左手の指先から赤黒い火花とオーラを迸らせると、その掌底を剣の鯉口に、その太い腕を鞘そのものに見立てて、ズズズ……。と緩慢な動作で引き抜くように黒く禍々しい直剣を作り出しては右の手に握る。
決して派手な装飾もなく、非常にシンプルな作りの黒い刀身をした剣。刃長は百二十センチに及び、両の手でしっかりと握り込めるほどの柄の長さと、かなりの重量を誇る。
その昔、神秘が色濃く残る時代に神剣の破片を溶かした合金を使って鍛造され、鍛治師の『怒り』と血が注がれたその魔剣は、見たものを畏怖させるような凄まじい毒気を放つ。
「―――――〝魔剣グラム〟」
またの名を竜殺しの剣。
かつて、その神秘の時代から
その力はシグルドの『怒り』によっても増幅された。
「っ!?」
先に動いたのは、尻込みしていて低く唸り声を上げるばかりの情けない魔物だった。
ダッ、と兎のように遁走を図る。
それに気付いたのは、それまで食い入るように静観することしかできなかったホルンだった。
あっけなくシグルドに投げ飛ばされたことで力の差を思い知ってしまったのだろう、絶対的な強者を前に恐れをなした一匹の魔物は、一目散にその片割れを見捨てて逃げ出したのだ。
「私が追います!!」
言うや否や、魔物の行方を目で追いながら崖から飛び降りたホルンは志久真の車を目指すことにした。
いまのシグルドの耳にその声が届いているかは分からない。どうやらオリヴィアは意識を失っており、それが引き金となってしまった現状でもあるのだろう。
正直なところ、目を離していいのかどうかも不安だ。
しかしこの一連の出来事の全ては、ホルンが認められるためにあるのだと思い至ると、厳正に優先順位を見極め、ホルンはこの場を後にすることに決めた。
「………」
「ギャッ……ガウゥッ……!!」
何、心配することはない。
シグルドの狙いは、もとより一方の魔物だった。
竜の眼差しをするシグルドに見つめられた魔物はその体を硬直させ、逃げ出すことも叶わず、己を見捨てた同胞へ恨みつらみの遠吠えを挙げることもできず、逃げ腰の威嚇でせめてもの抵抗をするしかない状況にいる。
ゆっくりと歩み寄るシグルド。
それは死の宣告に他ならなかった。
彼は魔剣の柄を固く握り直し、高々しく、その鋒を天に翳す。
そして――。
一閃。
振り払う。その刀身は、魔物に触れもしなかった。
ただ上から下へ、袈裟斬りのような振り下ろし。肉や骨を断つ感触もなければ、魔物自身に痛みも苦しみも届いた様子はない。
一拍の静寂。
しかし、次の瞬間には『斬った』という事象が収束するかのように魔物の体にはピシリと亀裂が入り、その上部はずるりと滑り落ちて地面にこぼれ落ちる。
どさり、と肉塊が転ぶ。
竜を殺すための剣なのだから、そこらの魔物を殺めるには過剰すぎるが故の因果であった。
▲▽▲▽▲▽▲
逃げ出したもう一匹の魔物の追跡に奔走するホルンは、額に焦燥感のある汗を浮かべながら急いで坂を駆け降りると、志久真の車に大慌てで乗り込んだ。
「うぉおおどうした!?」
「逃げられました! 追跡をお願いします!」
「お、おお……分かった!」
通信機越しに状況を聞いて祈るばかりだった志久真は、唐突なホルンの来訪に気を動転させていたが、すぐにその気を引き締めると車のエンジンをかけてヘッドランプを点ける。
「西の方角に行きました!」
「任せろ!」
そうして発信する車の助手席で、ホルンはすぐにルーン魔術の展開を始めた。使用するのは使い慣れた〝足跡を浮かび上がらせるルーン魔術〟で、これは索敵や不意打ちには向かなかったが、逃げ隠れた魔物の跡を追うには理想的なルーン魔術だった。
そして同時に、オリヴィアから教わった――感覚を研ぎ澄ませるルーン魔術も併用する。これにより、視認の難しい距離にある足跡から湧き立つ微細な光の粒子もキャッチできるようになり、ホルンは冷静に魔物の位置を志久真に伝えることが可能だった。
「………」
そんな真剣なホルンの様子を見て、チラチラと運転席の志久真は気にしたそぶりをする。高速道路上でベイタと格闘したときほどではないが、ホルンの体は傷だらけで痛々しく、なのにアドレナリンが出ているのか本人はそのことを気に留めた様子もない。
逞しいなと思う反面、無理をしすぎてやいないかと心配になるのだ。
「このまま真っ直ぐ突き進んでください」
「分かった」
だけどいま全力の彼女に水を差すのも違うような気がして、志久真は喉元まで出かかった心配の言葉を呑み込む。
どうしても今回は戦力外の立場にいる志久真だ。いつもは気になることがあればすぐに問いかけていたが、今回はサポートに割り切ってホルンを第一に支えるべきだと思った。
だから、志久真は思い出したように語る。
「……そうだ、魔物。鵺の情報が掴めたんだ」
数分前、現場の情報と照らし合わせて検索を依頼されていた今回の魔物の正体についてだ。
「特徴はほぼ一致してる。他の神話のキマイラ系に、雷に関連するトピックはなかった。ただ……」
「ただ?」
「もし本当に、今回の相手が鵺なら……。もしかしたら、その姿形に実体はないのかもしれないんだ」
「え……?」
実体を持たない魔物の可能性。
そんなもの、ホルンはこれまで一度も考えたことがなかった。
志久真の唱える仮説に、彼女は困惑の色を見せる。