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第81話 ルーン・ガルドゥル

 ――その頃、お姫様のようにオリヴィアのことを抱き抱えながら尋常ならざる脚力で飛び跳ねるように空を駆けていたシグルドは、傍目に、市街の中心ではホルンによる交戦が行われているのを確認しながらも道志村のキャンプ場を目指していた。


 ほどなくして山間部にあるキャンプ場へと辿り着き、シグルドは丁寧な所作で自身の妻を下ろす。

 皺のついたスカートの裾を伸ばすように叩いて身なりを整えたオリヴィアは、すぐに暗闇の野原へと目を向けて頷いた。


「ここでなら大丈夫そうね。うん、始めましょう」

「うむ」


 一般的に知られるルーン・ガルドゥルは、おまじないとしての刻印であり、身につけるもの(あるいは身体そのもの)に願いや祈りを込めて刻むものだとされる。


 一方で、儀式魔術としてのルーン・ガルドゥルは広域に陣を刻みつけて地上に神秘的な空間を作り出し、特別な効果を発揮することを目的とするのだ。


 オリヴィアは片手のドラウプニルを石突の尖った両手杖に変化させると、魔力を流し込んでその先端に淡い光を浮かべ、浅く凍った雪の張る大地に突き立てながら力強く線を引き出した。


「Tiwaz.Algiz.Hagalaz...」


 ぶつぶつと呟きながらルーン・ガルドゥルに必要とするルーン文字を次々と描き出していくオリヴィア。

 杖の先の光は大地をジワッと焼き焦がし、雪を溶かして簡単には消えない魔法陣を刻み込む。


 書き損じは許されない。たった一度の魔法陣だ。


 このルーン・ガルドゥルの基盤には軍神ティールの加護を意味するテイワズと祈りのアルギズを採用し、この厳しい戦いの絶対の勝利をオリヴィアは強く願っていた。


 次第に高まる魔力の気配はやがて町内全域に波及していき、市街の中心へと飛び立っていた黒雲鵺もこちらを無視はできなくなるはずだろう。

 魔力のねじりがスリップ現象を引き起こして数々の異界を渡る魔物は、元の世界へ帰りたいという意思から、より力強い魔力の反応を好む。


 魔術の成否を険しい表情でただ見守るシグルドは、片耳に指を添えてホルンチームへの情報共有を図った。


「……こちら、シグルド。間もなくリヴの魔術の準備は無事に整う。そちらの戦況はいかがだろうか」


 一拍遅れて、反応は返ってくる。


『ホルンが倒してくれた』


 オープンチャンネルを通して行われる志久真のその報告に、誰よりも目を見張ったのは同じく通信を耳にしていたゲルだった。


 ▲▽▲▽▲▽▲


 ――その胴体を槍で穿たれ、民家の庭のなかに墜落した鵺の骸。


 その様子を確認しに行くため、慎重な足取りで二人が民家の塀に近付こうとしていると、ふいに、敷地内の異常事態を察知してか起き抜けの家主が部屋の明かりを点けてきてしまう。

 そうしておもむろに開かれるカーテン。

 咄嗟に志久真たちは身を屈めて遮蔽物に隠れなければならなくなった。


「(ま、まずい……)」

「(……!)」


 これは非常によろしくない展開だ。


 小声で囁きながら二人は息を呑む。

 骸の確認と言っても当然ながら油断はならない。

 シグルドから話を聞いた限りでは、実体を解いて黒雲状態になった鵺は高純度の雷撃を放ち回ることができるそうだ。


 万が一、様子を見に外に出た家主が鵺に目をつけられて事故が起きようものなら大惨事となる。それだけは一般人代表の志久真としても、警備隊としての矜持を未だに持つホルンとしても絶対に避けねばならない出来事だった。


「(………、俺に任せてくれ)」


 急な事態が差し迫るなか、ゴクリと唾を呑み込んで決意を固めた志久真はそろぉりと抜け出して民家の正面入り口へと回る。

 この状況で陽動としてできることなどただ一つ。


 たったいま、庭に面した窓ガラスを開けようとクレセント錠を下ろしていた家主を、志久真は真夜中の不審なピンポンダッシュで玄関先へ意識を逸らすことに成功した。

 そしてその隙を狙い――ホルンもすぐに動き出す。


「っ!」


 庭に横たわる鵺の骸は、実際に夥しい瘴気を迸らせてその形態を黒雲に変化させようとする過程だった。


 志久真による時間稼ぎがそう長くないことも分かっていたホルンは、多少強引な手にはなるものの危険を省みることはなく、ブラスターによる射撃で形態変化中の鵺の気を引きつけることを選ぶ。


 一発、二発、三発と、その光弾は黒雲のなかに呑み込まれていく。

 やはりダメージが通っている印象はなかった。

 しかも、それに加えて――。


「―――ッ……!?」


 素早い反撃がホルンを襲うことになった。

 無事でいられたのは奇跡に他ならない。

 容赦なく顔面に差し向けられた返しの雷撃は、文字通り間一髪の距離で毛先を掠め、ホルンはすぐにドラウプニルの形状を盾に変えると同時に撤退する。


 去り際に志久真とも合流すると、急いで二人は車の中へと乗り込んだ。


 骸からその中身がようやく黒雲へと全て移り、肉体を切り離した黒雲鵺はターゲットを完全にホルンに定めると、断続的にチャージした雷をバチィッ! バチィッ! と降り落として怒りを露わにしながら猛追してくる。


 そのあまりの勢いには志久真でさえも気を動転とさせた。


「待て待て、これ逃げ切れるのか!? 直撃したらっ、車が壊されるぞ……!?」

「しゃっ射程は短いです! しぐま! 絶対に止まらないでください! 追いつかなければ、まだ……!」

「……っ!?」


 一転して二人はとても危うい状況となった。

 ひとまずはキャンプ場を目指して車を猛発進させ続けるが、依然として背後では強気になった黒雲鵺が威嚇をしながら追いかけてくる。

 比例して雨足も強まってきており、視界も悪く鵺は強化されていく。


 膨大な魔力反応に鵺は誘き出されると予想していたが、これほどまでに一点に狙われていてはそれも叶わない話だった。


 しかも――。


「あれ、二匹目じゃないか……!?」

「えっ!?」


 それは絶望的な光景だった。

 シグルドによって黒雲状態にされたもう一匹の鵺は、魔力反応に誘われることもなく、そしてシグルドに拘ることもなく、まるで臆病な相方を助けに行くかのように眼前からこちらを迎え撃とうと待機していた。


 川沿いの直線道路上で、最悪の挟み撃ちが起こる。


「ほっホルン! ホルン!? 何か手は!?」

「な、何か考えます……ッ!!」


 脇道はない。ハンドルを切り替える暇もない。志久真の車はこのまま進み続けることしかできず、切迫した状況のなかをホルンは必死になって思考し続ける。


 黒雲の内側に青白い雷が充填する。


 ハッと思いついたように顔を上げたホルンは、伸ばした右手を広げて魔力を練り上げた。


 投擲したままにしていた槍を、急速にこの場へと引き寄せる。



 ――――――!!!!!

 そうして二度轟く雷霆。



 死を覚悟して青ざめる志久真だったが、しかしその前後から放たれたイカヅチは車へ到来することもなく、遠方から飛来して空中に穂先を突き立てた槍へと吸収されることになった。

 志久真は訳を悟る。


「避雷針の要領か……っ!」


 そのまま、魔力を宿した右手を振り払うことで帯電した槍を川辺へ放り投げるホルン。見事に攻撃を逸らすことに成功し、戸惑う鵺の真下を車は走り抜けていく。


「う、うまく行きました……!」


 咄嗟の思いつきではあったが、感極まったホルンは頬を赤くして打ち震える。今にも泣き出しそうな彼女を隣にして、志久真もまた「すごい! すごいぞ!」と浮き足だったように誉めそやした。

 この瞬間は、まさしく彼女のひらめきがなした急死に一生であった。


 思わぬ経験に志久真は興奮しつつも、その勢いのまま通信機を繋いでシグルドに報告する。


「二匹の鵺を引き連れて、キャンプ場に向かいます!」

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