小さな世界は彼でつながり、
今、彼の中に宿っている。
全てはここに行き着くための物語だった。
彼が少年を取り戻して、
次へと歩き出すための物語だった。
走り回る少年。
きらきら笑う少年。
戦う少年。
これは、彼に欠落していた部分を、取り戻すための物語だった。
駆け回った日々。
短くも長かった少年の日。
笑顔、泣き顔、怒り、悲しみ。
知らず知らずに欠落していたそれを、取り戻した日々。
完全な大人になれるわけじゃないけれど、
彼は少しだけ、以前とは違っていることを感じている。
彼は彼女の手を取って歩き出す。
今度こそ手を離さないように。
一人にさせないように。
彼女は彼の女神だから。
彼の中の世界の、柱となった女神だから。
黒い宝石の目は、
挑戦でもするように凛として輝いている。
いつだってそばにいた。
気がつかないうちから。
彼は風を感じる。
無口な風を。
彼は太陽を感じる。
日によって表情の違う太陽を。
彼の中とは違う、大きな世界。
目を閉じれば、つなげた世界のことを思い出せるのに。
そのうち日常に埋もれてしまうのだろうか。
忘れてしまうのだろうか。
彼女が微笑む。
あどけないほどの笑顔。
彼女も巻き込んで走りすぎた日々。
忘れたくないと思った。
壊れた時計が壊れてなくても、
壊れた時間を指し示さなくても、
もしかしたら、壊れた時計が消えてしまっても、
少年の思い出は忘れたくない。
年を重ねても。
日々の忙しさにかすんでも。
当たり前の日が続いても。
忘れたくないものがある。
形のない、底抜けにきれいな感情。
「ありがとう」
彼はつぶやく。
彼女は不思議そうな顔をする。
「なんだか、そう言いたくなったんだ」
彼がそう言えば、彼女は微笑む。
「世界中にありがとうと言いたいくらい、幸せなんだ」
彼女はうなずく。
ありがとう。
みんなみんなありがとう。
ありがとう。ありがとう。
何回言っても足りないくらい。
夜中にあの男がくることは、もうないと思う。
名前を略されることを嫌うあの男。
ネフロレピスを探し出しても、
あの男はあの男。
ずっと心では略されたまま。
嫌がるかな。
鋭い目をしたあの男。
ありがとう。ありがとう。
心に祝福があるように。
みんなの笑顔がフラッシュバックする。
駆け抜けていった世界の、
さまざまの人たち。
男、女、子ども、大人、老人、
出逢ったたくさんの人。
彼の中に、世界は一つにつながっている。
きらきらした記憶とともに、
記憶は彼の糧になる。
風が吹く。
茶化すように。
髪が乱れる。
彼女は手ぐしで整える。
茶色の髪が、一瞬、長い白い髪とダブって見える。
黒い目を細める。
一瞬誰かと重なる。
彼はわかっているような、わからないような、
不思議な感じがした。
彼女に聞くものじゃない。
彼は自分の中に、不思議な感覚をしまった。
しまってもなお、彼女が美しく見えた。
「どこにいきましょう」
彼は尋ねる。
彼女は考える。
彼も考える。
彼女が何か思いついて話し出す。
彼はうなずいて、彼女の手を取り、歩き出す。
休日の人ごみの中、当たり前のように。
普通の恋人であるように。
太陽は約束の証であるように輝き、
風は心の友となる。
歩き出した二人はどんな道も歩けるだろうし、
水は大切な恵となる。
扉はもう、つながらない。
つながらない扉の向こう、
あの日の世界がある。
優しいような、窮屈なような、
箱庭の世界。
彼が遊んでいた、
彼が彼を取り戻した、
箱庭遊戯。
これはそういう物語。
彼の心に、みんないる。
彼と同じように、変わっていく世界がある。
扉を開けたら。
みんな、待っている。
みんな、君を忘れない。
みんな、ここにいるよ。
おしまい