「ねぇ太地、ちょっと聞いてよ。ウチの上司が今犬飼っててさ。そのこと自体は別にいいんだけど、ことあるごとにその犬の写真を見せてくるの。確かに可愛くはあるんだけど、毎日のように見せられるから、ちょっと面倒くさくて。でも、やっぱり上司だし、『可愛いですね』ぐらいしか言いようがないでしょ。私どうすればいいかな?」
友梨佳が再び一緒に食事をしようと平賀に連絡してきたのは、長野今井高校での薬物乱用防止教育が終わって数日後のことだった。平賀も退勤後は特に用事がなかったので、二つ返事で応える。
友梨佳が指定したのは、以前二人で会ったときと同じファミリーレストランで、宿舎からは少し遠くても、平賀も友梨佳が行きやすいならそれでいいと思える。
夜の九時を過ぎてもファミリーレストランは混雑していて、めいめいに話す客の声で、今日も騒がしかった。
「確かにそれはちょっと難しい問題だな。その上司は良かれと思って見せてきてるわけだろうし」
「うん。もういっそのこと『見せてこないでください』って言った方がいいのかなぁ。『お宅のワンちゃんが可愛いのは、もう十分分かりました』って」
「まあそこまで直接的に言う必要はないと思うけど、でもお前が嫌なら、そういう風に言った方がいいんじゃないか? 別にそれが仕事に影響するわけじゃないんだろ?」
「うん。それはそれ、これはこれって割り切って考えてくれるタイプの人だと思う」
「じゃあ、それとなく伝えればいいんじゃないか? 大丈夫だよ。その人もいい大人なんだし」
「うん、分かった。迷惑にならない範囲で言ってみる。ありがとね、太地。話聞いてくれて」
そう言った友梨佳に、平賀は思わず小さな笑みを漏らす。自分が友梨佳に愚痴を吐露してもいいと見なされていることが嬉しかった。
でも、その表情が友梨佳には少し不思議だったようで、「どうしたの? 太地。私、そんなおかしいこと言った?」と訊いてくる。平賀はなんてことのないように、軽い調子で答えた。
「いや、お前でも日々の仕事や生活で不満に思うことあるんだなって。ストレス感じてるんだなって、ちょっと思っただけ」
「何それ。そりゃあるでしょ。私だってそんな能天気じゃないよ。日々の中で思うことや感じることも、それなりにあるんだから」
「そうだな。でも、お前がそれにどうやって対処してんのかって、ちょっと気になって。だって、ストレスはそういうことの引き金になりかねないわけじゃんか」
「なるほどね。心配してくれてありがと。でも、大丈夫だよ。ちゃんと仲の良い同僚や、自助グループで繋がった人たちに吐き出せてるから。ストレスは溜めたらろくなことないもんね。だから、そういったことが頭をよぎる前に、人に話すことにしてる。太地も含めてね」
「そうだな。それがいいよ。たとえ解決しなくても、人に話すだけで気が楽になることってあるから」
「うん。気兼ねなく話せる人がいて、私は恵まれてるなって思うよ」
微笑む友梨佳に、平賀も同じ表情を返す。
注文した料理が運ばれてくる気配はまだなかったが、それでも友梨佳と一緒の時間を過ごせて、平賀もいくらか穏やかな気持ちでいられた。
「でさ、太地は最近どうなの?」
「どうなのって?」
「仕事のこととか、あと色々。でも、仕事大変なんじゃない? よかったら私に愚痴でも何でも言ってくれていいよ。私も愚痴ったことだしさ」
「いやいや、ウチには守秘義務があるから。そんなたいそうなことは言えねぇよ」
「そっかぁ」と口を尖らせている友梨佳を見ていると、平賀はなんだか面目なく思えてくる。友梨佳が話したのだから、自分も話した方がいいのではないか。
そう思い、平賀は話しても問題のない内容を探した。
「あのさ、この前高校に講演に行ったんだけどさ」
「へぇ、講演ってどんな内容?」
「それはお前には言いづらいっていうか、あまり聞きたいことじゃないだろうし……」
友梨佳に向けてその単語を発するのは慎重になるべきだったから、平賀は言葉を濁す。誰も自分たちを気にしていないとはいえ、ファミリーレストランは一応は公共の場だ。
平賀の意図を察したのか、友梨佳も「ああ、なるほどね」と分かったように頷いていた。「で、どうだったの?」と訊かれて、平賀は直接的なワードを口にしないように、言葉を選ぶ。
「ああ、とても良い講演になったと思う。それを使う危険性や、使ったら待っていることについて教えられて。生徒たちも真剣に聴いてくれてたし、きっと記憶にも残ったんじゃないかな。改めてそれを使わないようにする意識を持ったみたいで、成功したと言っていいと思う」
「そっか。確かにそれは使わないに越したことはないもんね。もし何度も使うようになったら、それこそ人生が台無しになっちゃうから」
友梨佳の言葉には、実際に使ってしまった者としての説得力があった。きっと自分では想像もできないような苦労を重ねてきたのだろう。そう感じながら、平賀は話を続けた。
「ああ。でもさ、その講演で伝えたのはそれだけじゃなくて。もし万が一使ってしまったときは、適切な機関や自助グループに繋がってほしいってことも、一緒に伝えたんだよ。もちろん使わないのが一番なんだけど、でももし使ってしまったときにどうすればいいかっていうのは、今まで伝えてきてなかったから。使ってしまったからって、人生が終わるわけじゃない。適切な対応があれば、回復への道を歩むことは十分に可能だから。今のお前みたいにな」
「そうだね。それを使ってしまった後も、人生は続いていっちゃうからね。もちろん大変なことではあるんだけど、やめ続けるのは、回復への道を歩むことは決して不可能なことじゃない。私もそれなりに時間はかかったけど、今はそう思えてるよ」
「ああ、そうだな。でもさ、そういった内容を講演に盛り込むことは、きっとお前がいなかったら、考えついてなかったと思うんだ。お前がいなかったら、従来通りの教材のまま講演を行って、絶対に使っちゃダメって念を押すような内容に終始してたと思うから。でも、回復のことを盛り込んだおかげで、生徒たちにとってもより実りの多い講演になったと思う。これもお前がいてくれたおかげだよ。本当にありがとな」
平賀が礼を伝えると、友梨佳の目にどこかしみじみとした色が宿る。一つ息を吐いたその表情は、感慨に包まれているかのようだった。
「そっか。まあ、あんなことになってよかったとは絶対に言えないんだけど、でも私の経験が太地の役に立ったのは嬉しいよ。もしかしたら、その講演を聞いた生徒さんたちのなかにも、万が一使ってしまったときに、太地が言ってたことを思い出す人がいるかもしれないしね」
「ああ、俺も今回の講演が効果的なものになったようで、改めてよかったって思うよ」
「ねぇ、太地。本当に私に感謝してるんならさ、それを言葉だけじゃなくて、具体的な行動で示してくれない?」
友梨佳の言葉が思いがけなかったから、平賀は軽く戸惑ってしまう。「具体的な行動って?」と訊き返すと、友梨佳はよりいっそう表情を緩めてみせた。
「実はさ、今気になってる映画があるんだよね。でも、一人で観に行くのもなんだし、私の周りにいる人もそんな映画に興味なさそうなんだよね。だから、太地と一緒に行けたら嬉しいなって、私は思ってるんだけど」
「なんだ。そんなことか。それくらいだったら全然いいよ」
「本当に!?」
「ああ。でも俺さ、必ずしも土日が休みってわけじゃないから。予定合わせるのは、ちょっと苦労すると思うけど」
「そんなの、私が太地の予定に合わせて休みを取ればいいだけの話だよ。幸い有休も取れないようなブラック企業じゃないしね」
「そっか。それは助かるよ」
「うん。じゃあ、決まりだね。ねぇ、太地。これからもよろしくね。映画のことも含めてさ」
「ああ、よろしくな」
微笑み合う二人。自分と友梨佳の間にあった壁が一枚取り払われたかのようで、平賀は喜びを感じる。
二人の間に割って入るかのように、厨房からは陽気な音楽が流れ始め、サラダを載せた配膳ロボットが二人のもとにやってくる。
平賀たちはそれを手に取ると、さっそく取り分けて食べ始めた。シャキシャキとした野菜にドレッシングの塩気が効いている。
「美味しいね」と友梨佳が言い、平賀もより口元を緩めた。