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第68話


 日に日に涼しさを増す風が、頬に当たる。夏も峠を過ぎて日が沈むのも早くなってきたけれど、もうこの時間帯には関係ない。

 夜も九時を回ろうかというときに、寺戸瞬てらどしゅんは一人、ドアの前で立っていた。団地の一角。ドアの向こうからは、かすかにテレビの音が聞こえてくる。

 寺戸はしばし逡巡する。ドアを開けたらどうなるかは目に見えていたが、それでもここは自分の家だから帰らないわけにはいかない。

 寺戸は意を決してインターフォンを押した。玄関にやってくる足音が、自分を責めているかのように感じられた。

「瞬、おかえり」

 ドアを開けた奈月なつきは、寺戸を責めることはなかった。無事に帰ってきたことに安堵しているようだったが、それでも寺戸の緊張は止まない。

「今、ご飯準備するから、ちょっと待っててね」とダイニングに向かっていった奈月をよそに、瞬はリビングに向かっていく。

 テレビの電源を切って、隆志たかしが振り向く。厳し気な視線に、自分に原因があると分かっていても、寺戸は思わず縮み上がってしまう。

「お、お父さん、ただいま」

 寺戸がびくついたように言っても、隆志はいかつい表情をやめなかった。「瞬、ちょっとそこに座りなさい」と言われ、寺戸もそのまま床の上に腰を下ろす。

「こんな時間まで何してたんだ?」

 隆志の疑問は至極当然だと、寺戸には思える。

 でも、声色には怒りや不満が隠せていなかったから、寺戸は竦み上がってしまう。

「ちょっと、友達と遊んでた。カラオケしたり、スポッチャしたりして」

「それは、こんな遅くまでしなきゃならないことだったのか?」

 寺戸は押し黙る。何を言っても釈明にはならないと感じる。隆志の責めるような視線が、刺さるように痛い。

 だけれど、次の瞬間には寺戸は頬にひどく現実的な痛みを感じていた。隆志が平手で寺戸の頬をぶったのだ。破裂音にも似た大きな音が、リビングに響く。

 きっとそれはダイニングまで届いていただろう。でも、奈月は二人のもとにはやってこなくて、寺戸はじんじんとした痛みとともに、心もとなさを抱えてしまう。

 それでも、隆志は厳格な目をしたままでいた。

「瞬! 何とか言ったらどうなんだ!」

 隆志は、再び寺戸の頬をぶつ。瞬間、鋭い痛みが寺戸に走る。

 手で触って張られた頬の感触を確かめながら、寺戸はそれでも隆志を見ることしかできない。頬を張られるのも、原因は自分にあると思ってしまっていた。

 だけれど、隆志は寺戸に見つめられてさらに激昂したのか、おもむろに立ち上がる。そして、寺戸の背中を今度は拳を握りながら殴ってきた。

 何度もなされる容赦のない殴打に、寺戸は身を屈めるしかない。

「なんだ、その目は! まずは門限を破ってごめんなさいだろ!」

「ご、ごめんなさい。お父さん。門限を破ってしまってごめんなさい」

「お前は、どれだけ俺たちに迷惑をかければ気が済むんだ! そんなに俺たちが嫌いか! そんなに俺たちが憎いか!」

「そんなことはないです。お父さんやお母さんに迷惑をかけてしまって、申し訳ありませんでした。もう二度としません」

 寺戸がそう言うと、隆志はようやく殴るのをやめた。「瞬、顔を上げろ」と言われて、寺戸は言う通りにする。

 すると、最後にもう一度平手で頬をぶってきた。その痛みに寺戸は涙が出そうになったけれど、どうにか堪える。

「ああ、もう二度とするなよ。俺はお前を心配して言ってるんだからな。これから門限は絶対に守れよ。それがお前のためになるんだからな」

 隆志がそう言って、寺戸も頷いた瞬間、ダイニングにある電子レンジが鳴った。夕食ができた合図だろう。

 隆志に「ほら、飯食いに行け」と言われて、寺戸はようやく立つことを許される。

 ダイニングに行くと、テーブルには肉じゃがとサラダに、ご飯が盛られて置かれていた。でも、それも一人分で、奈月ははっきりと右の頬が赤くなった寺戸にも「ご飯食べたらお風呂に入ってね。用意できてるから」と言うだけで、リビングに向かっていってしまう。

 バラエティー番組の陽気な笑い声がリビングから聞こえるなか、寺戸は一人肉じゃがに箸を伸ばす。温かい肉じゃがは優しい味わいだ。

 食べ進めるうちに、寺戸の頬には伝うものがあった。

 門限を破ったのは確かに自分が悪い。でも、何度も殴られるほど自分は許されないことをしたのだろうか。

 寺戸にはそれが分からず、ただ箸を動かし続ける。テーブルに一筋の涙がこぼれたけれど、隆志や奈月はそれを気にする素振りをまったく見せなかった。


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