長かった夏もようやく終わり、吹く風も日に日に秋の気配を濃くしていく朝。雫は普段と同じように鑑別所に出勤していた。自分の席について軽くデスクワークをこなしてから、全体朝礼に参加する。
今日の予定を同僚たちの前で言いながら、雫は自分がはっきりと緊張していることを自覚する。今日は鑑別所にまた新たな少年が入所してきて、その少年は雫が法務技官を務めることになっている。
今まで何人かの少年に会ってきたとはいえ、少年と初めて顔を合わせる瞬間は、未だに雫は新鮮な緊張を覚えてしまう。
全体朝礼を終えて、雫がドキドキしながら警察の調書に目を通していると、鑑別所の外の駐車場に車が停まった音がした。雫は別所に声をかけられて、ともに玄関へと向かっていく。
するとそこには警察職員に連れられて、今日入所する少年である寺戸瞬が立っていた。短く切り揃えられた髪が、聡明な印象を与えてくる。
でも、その目には怯えの色が覗いていて、別所が声をかけてもそれは変わらなかった。返事をする声は小さく消え入るようで、それは警察の調書に記載されていた寺戸の罪名とは、似つかわしくないように雫には感じられた。
雫たちは最初に寺戸の居室を案内し、そこで水色の制服に着替えてもらう。三畳ほどの居室を目にした寺戸はショックを受けているのか、一瞬固まっていた。
それでも、制服に着替えると、雫たちは次に鑑別所の施設を案内する。食堂、図書室、校庭。
これから数週間を過ごす場所を、寺戸はおずおずといった表情で眺めていた。目にするものすべてに怯んでいるようで、その姿は雫には少し気の毒にさえ思えてしまうものだった。
「……以上で、ここで過ごすうえでの決まりや、これからの予定についての説明を終わります」
そう言った別所に、寺戸は小さく頷く。各施設を案内してから、三人は第一面接室に入って、寺戸は別所から鑑別所の説明を受けていた。
別所の話を聞いている間、寺戸はかすかに目を伏せていて、雫たちと視線は一度も合わなかった。ここに来てしまったことを深く恥じているような態度に、雫は別所の話がちゃんと頭に入っているのか、少し疑わしく感じてしまう。
思えば雫たちが最初に自己紹介をしたときも、寺戸はただ小さく首を縦に振るだけだった。意識しなければ見逃してしまいそうな挙動に、雫にはますます目の前の寺戸と調書の罪名が結びつかない。
「私どもから今申し上げられることは以上なのですが、では反対に寺戸さんから、私たちに訊いておきたいことなどは何かありますか?」
別所がそう尋ねても、寺戸が顔を上げることはなかった。暗く沈んだ表情は、検挙されてここに来ることになった事態を、実際以上に重く受け止めていそうだ。
それでも、少しすると寺戸はその重たい口を開いた。
「……あの、本当にここには四週間もいなければならないんでしょうか?」
寺戸が発した疑問は、たった今別所が説明したことの確認だった。一応は話をちゃんと聞いていたらしい。
「はい。少年審判の日程によっては前倒しされるかもしれませんが、それでも四週間以上にわたる在所はまずないと考えてください。それとも寺戸さんには、何かここには長くいられない事情があったりするのでしょうか?」
「い、いえ、あんなことをしてしまって、こんなこと言えた義理じゃないのは分かってるんですけど、それでも僕一応受験生ですし……。勉強しなくちゃならないんですけど……」
寺戸が言うことは、雫にも一定の理解はできた。中学三年の一一月では、受験を意識するのも当然だろう。
それでも、雫はそんなことを言っている場合かという思いを抱かずにはいられない。寺戸がここに来たのはそれ相応の理由があるのだ。自分のことよりも、もっと気にすべきことがあるだろう。
だからといって、雫はそれを直接的に言葉はしない。前置きをしている以上、それは寺戸も承知の上なのだろうと感じていた。
「そうですね。寺戸さんのその気持ちは分かります。もし希望するならば学習指導という形で、私から多少なりとも寺戸さんに勉強を教えることができますが、どうしますか?」
別所も寺戸の言うことを頭ごなしに否定するのではなく、反対に提案する形をとっていた。
予期しない反応だったのだろう。寺戸はかすかに目を瞬かせていた。「少し考えさせてください」と返事を保留にした寺戸に、雫は穏やかな目を向け続ける。
たとえ逮捕や検挙をされるようなことをしたとしても、勉強をする権利は、誰に対しても分け隔てなく与えられるべきだろう。
「分かりました。では、他にも何か寺戸さんから、この機会に尋ねておきたいことはありますか?」
別所が再び、寺戸に水を向ける。すると、寺戸は少し目を泳がせた後に、おそるおそるといったように口を開いた。
「あの、ここにいる間は面会の機会もあるんですよね? それってどんな人が来るんですか?」
「そうですね。少年審判に関係したところで言いますと、家庭裁判所の調査官や付添人と呼ばれる弁護士と、面会をする機会があると思います。加えて寺戸さんに関係するところだと、両親や親戚、あとは学校の先生などが面会に来るかもしれないですね」
「……それって絶対に応じなきゃならないんですか?」
「はい。よほどの理由がなければ、原則的には応じていただきます。特に家庭裁判所の調査官や付添人との面会は、少年審判を行う過程で必要になってきますから。もしかして、寺戸さんは気が進まないですか?」
「いえ、そういうわけじゃないんです。こういった状況に置かれたからには、応じなければならないことは分かっていたので。少し訊いてみただけです」
そう弁明する寺戸の口調に隠し切れない落胆が滲んでいるのは、雫も感じてしまう。誰にとっても、家裁調査官や付添人との面談は未知のものだ。だから、寺戸が及び腰になるのも無理はないと、雫は思える。
「大丈夫ですよ。調査官や付添人が寺戸さんに対して、高圧的な態度を取ることはありませんから」と別所に付言されて、寺戸も「は、はい」と頷いている。その表情はまだ怯えているようで、雫には気がかりだ。
「では、他に何か訊きたいことはありますか?」
「いえ、もうないです」
「そうですか。では、これで入所時オリエンテーションを終わります。この後の予定ですが、寺戸さんにはまず医師の診察を受けていただきます。準備が整ったら、またお呼びしますので、いったん居室に戻りましょうか」
寺戸が小さくても頷いたのを確認し、三人は立ち上がる。
居室に向かっている間も、寺戸の目は床に向いていて、雫はその心のうちを慮らずにはいられなかった。