雫たちが職員室に戻ると、入れ替わるように湯原と平賀は席を立って、職員室を後にしていっていた。今日鑑別所に入所する少年は、寺戸一人ではない。
湯原たちがもう一人の少年のオリエンテーションを行っている間、雫はデスクワークに従事する。
やがて医師である取手がやってきて、診察室に向かっていき、別所も診察や健康診断を行うために、寺戸を再度呼びに行った。那須川も今は席を外していて、雫は職員室に一人残される。
でも、配属されてから既に四ヶ月ほどが経って大分慣れてきている部分もあったから、雫は心細さを感じることはなかった。一人静かに業務に集中できていた。
やがて職員室にはまず寺戸の健康診断を終えた別所が戻ってきて、次にもう一人の少年のオリエンテーションを終えた湯原が戻ってきた。平賀と取手はもう一人の少年の健康診断の最中だから、まだ戻ってはこない。
湯原が戻ってきて間もなく、外からは正午を知らせるチャイムが聴こえて、雫たちは昼食休憩を迎える。入所者たちの昼食に立ち会って、私語をしないか等を観察するために別所は食堂に向かっていったから、職員室には雫と湯原が二人残される格好になった。
コンビニエンスストアで買ったパンを食べながら、雫は時折隣席の湯原を見やる。
同じくコンビニエンスストアの弁当を食べている湯原は、雫の視線にも当然気づいたようで、「何だよ。どうかしたのか?」と、口を動かしながら訊いてきた。
「いえ、何でもないです」と雫はごまかしたくなったが、それでもどこかのタイミングでは訊くだろうから、思い切って尋ねる。
「あの、つい先ほど入所された
雫が今日入所したもう一人の少年、
「どんな様子って、ここに来させられたことが不満げな様子だったよ。説明も話半分で聞いているようだったし、『何か訊きたいことはありますか?』って訊いても、『ないです』ってどこかふてくされた様子を見せてた。ここに来てるってことはそれだけのことをしたってことなのに、まだその自覚を欠いてるようだったよ」
湯原の返事を聞いて、雫は今は補導委託試験観察中の大石のことを思い出す。大石も入所時の態度は決して良いとは言えず、雫たちが対応に骨を折ったのも記憶に新しい。
だから、雫からは「そうですか。それは大変ですね」という言葉がこぼれる。それでも、湯原は飄々とした表情をし続けていた。
「いや、別に珍しくもないことだろ。ここは喜んで来るような場所じゃないしな。まあ、こっからどうやって面接をしたり心理検査をしたりして、鑑別を実施していくか。反省を促していくか。俺たちの腕の見せどころだよ」
「確かに、湯原さんの言う通りですね」
「そうだろ? で、お前が担当する寺戸さんの方はどうだったんだよ?」
返す刀で尋ねられて、雫はわずかに息を呑む心地がした。それでも、オリエンテーションで感じた印象を、包み隠さずに答える。
「そうですね。松兼さんとは対照的に少し怯えている様子でした。これからどんなことをされるのか、恐れを抱いているみたいでした」
「なるほどな。まあそれもよくある反応だな」
「はい。なので心を開いてもらえるように、より丁寧に接したいと思いました。少年審判が終わるまでの短い期間ですけど、それでも少しは信用してもらえるように」
「そうだな。でも、遜ったり下手に出すぎたりすんなよな。俺たちが舐められて良いことなんて、一つもないんだからな」
「はい。気をつけます」
雫がそう答えると、湯原はもう話は済んだというように、自分の食事に戻っていた。雫も再びパンを食べ進める。
それでも、雫の頭にはまだ引っかかっていることがあった。気になったまま抱えておくこともできそうになくて、雫はタイミングを見計らって、湯原に「あの、もう一ついいですか?」と尋ねる。
湯原も口を動かしながらでも、「何だよ」と目を再び雫のもとに向けている。
「寺戸さんなんですけど、少し面会に気が進まない様子が見られました。これもよくあることなんでしょうか?」
「まあな。だってただでさえ慣れない環境で、初めて会う人たちと会うんだから。そう感じてる少年は多いと思うぜ。たとえ、口や態度に出したりしなくてもな」
湯原の返事は雫にとっても納得できるもので、「確かにそれはそうですね」と、素直に相槌を打てるものだった。雫が今まで担当してきた少年も、胸の内ではそう感じていた者がいたのかもしれない。そう思うと、雫は寺戸だけが例外ではないと考えられた。
湯原の目は「まだ何かあるのか」と窺っている。だから、雫も「ありがとうございました」と口にして、もう訊きたいことはないことを伝えた。
二人は食事に戻る。特に会話もせず昼食を摂っていると、松兼の健康診断の付き添いを終えた平賀が、職員室に戻ってきていた。
寺戸への初回の鑑別面接は、さっそく入所した翌日に行われた。警察の調書など資料にもう一度目を通してから、雫は居室へと寺戸を呼びに行く。
でも、雫が「寺戸さん、面接をしましょう」と声をかけても、寺戸は一度雫を無視していた。それは怯えを見せていた昨日とは異なっていて、雫は苛立つというよりも、内心で首を傾げてしまう。まさか聞こえていないはずはないだろう。
その証拠に雫がもう一度声をかけると、寺戸はおずおずとながらも雫の方を向いて立ち上がっていた。
雫は少し安堵して、寺戸と第一面接室へと向かっていく。寺戸の足取りはゆっくりとしていて、やはり一晩で少し心境の変化があったのかもしれないと雫は察した。
「では、第一回の面接を始めたいと思います。寺戸さん、よろしくお願いします」
雫がそう言っても、寺戸は目に見える反応を返さなかった。丸まった背中はふんぞり返るというわけではなかったが、それでも雫はいくらか空しさを覚えてしまう。目は心細そうで、緊張のあまり固くなっているのだろうと、雫は解釈した。
こういう少年に対応する術も、仕事を続けながら身につけていかなければならないだろう。
「寺戸さん、そんなに固くならなくても大丈夫ですよ。私たちは、寺戸さんがしたことを責めたいわけではありませんから。安心してください」
そう雫が呼びかけても、寺戸は少しも動かなかった。口をぎゅっと結んでいて、声を出すのも憚られると思っているかのようだ。