雫たちが玄関に戻ると、寺戸たち三人を乗せた車は、別所の運転のもと鑑別所を後にしていっていた。
三人はまずいったん自宅に帰って荷物を整理してから、別所に連れられて寺戸だけが児童相談所に向かっていくという手はずになっている。別所が戻ってくるのは、おそらく午後四時を過ぎて空が暗くなり始める頃だろう。
職員室に戻った雫は、再びパソコンに向き合った。資料をもう一度読み返す。あと一時間もしないうちに、他の入所している少年との面接を雫は控えていた。
少年との面接を終えて雫が職員室に戻ってくると、隣の机には湯原がついていてデスクワークを行っていた。それでも、視線は時折机上の電話に向いていて、その理由が雫にははっきりと分かる。
寺戸とともに非行に及んだ松兼の少年審判は、もう間もなく終わる頃だ。既に少年審判の開始予定時刻から一時間以上が経っていて、いつ電話が鳴ってもおかしくはない。
そんな状況下で、雫は自分が担当したわけでもないのに、どこかソワソワしていた。
電話が鳴ったのは、雫が自分の机に戻って十数分が経った頃だった。電話機に表示された番号は、間違いなく長野家庭裁判所のもので、雫は受話器を取るのを控える。
湯原が電話に出ている間、雫は自分の仕事に集中しようとしたが、それはなかなか難しく、どうしても湯原の声に聞き耳を立ててしまう。
でも、湯原も相手の話に相槌を打つだけで、電話の詳しい内容は雫には分からなかった。
数分間の電話を経て、湯原が受話器を置く。一つ息を吐いた湯原に、雫は「今の電話、家裁からでしたよね? どんな内容だったんですか?」と尋ねる。
湯原は、表情一つ変えずに答えた。
「お前だって分かってるだろ。松兼さんの少年審判が終わったんだよ」
「やっぱりそうでしたか。それで、どんな処遇が松兼さんには下されたんでしょうか?」
「少年院送致だよ。事案の重大性もそうだけど、それ以上に本人の反省が深まっている様子が見られないから、少年院で矯正教育が必要だって判断だ。まあ、俺たちが提出した通知書の処遇意見通りの結果になったな」
「そうですか。松兼さん、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫って何がだよ」
「いえ、少年院送致になったからには、一度ここに戻ってくるんですよね。でも、共に非行に及んだ寺戸さんはもう退所していない。だから、例えばそれを夕食のときとかに知ることになると思うんです。そのとき、松兼さんは自分と寺戸さんとで違った処遇が下されたことに、ショックを感じたりしないでしょうか?」
「まあ、それはあるだろうけれど、でも担当教官である平賀がうまく説明してくれるだろ。松兼さんだって、少年院送致になったのは自分の態度に問題があるからなのは、それなりに分かってるだろうし」
「そうですよね。家裁でもされた説明を、改めて繰り返すだけですよね」
「ああ、でもこれで今回の事案が終結するとは、俺は思えないけどな」
「どういうことですか?」
「今回の結果を受けて、松兼さんが抗告する可能性も大いにあるってことだ」
そう言った湯原に、頷ける部分も雫にはあった。抗告は、少年審判の結果に承服できないときに高等裁判所に少年審判のやり直しを求める行為で、成人で言えば控訴に相当する。共に非行に及んだはずの寺戸と自分で違う処遇が下されて、松兼が不満に思う可能性もある。
「確かにそれはあり得ますね」
「ああ。というか俺は、多分抗告するんじゃないかと思ってる。今日の少年審判でも、松兼さんは少年院送致の判断に大きなショックを受けてたみたいだし、何より自分たちの大事な息子が少年院に入所するとなると、親は黙ってないだろ。面会のときも松兼さんを庇う様子が見られたし、付添人も少年院送致には首を傾げている様子だったしな」
「そうなんですか。となると、まだまだこの事案は続きそうですね」
「ああ、まあ俺たちとしては、あと数日間入所する少年院が決まるまでの関係なんだから、それほど関係はないんだけどな。抗告するにせよ、今回のような処遇が下された以上、一度は少年院に入所しなきゃならないんだし」
「松兼さん、どうなりますかね?」
「それを俺に訊くんじゃねぇよ。俺にだって分からないことなんだから」
「そうですね。失礼しました」雫が軽く謝ると、湯原は「じゃあ、俺平賀にも少年審判の結果を伝えてくるから」と職員室を出ていった。
再び一人で取り残され、雫は自分の仕事に戻る。今しがた行った面接の結果をまとめながら、頭の片隅では松兼のことも確かに案じていた。
翌日、雫が出勤すると、職員室には誰もいなかった。今日は湯原は休みだし、別所と平賀は少年たちの行動観察に出ているようだ。那須川も席を外していて、それでも雫は一応挨拶をしてから、自分の机に向かう。全体朝礼の時間までには、三人とも戻ってきてくれることだろう。
席に着いた雫は、黙々と自分の仕事を始めた。昨日少年に行った面接及び心理検査の結果を、改めてまとめる。
すると、数分した後にドアが開く。誰が戻ってきたのだろうと雫は入り口に目を向けるも、職員室に入ってきた人物は、雫が想像した誰とも異なっていた。
取手が出勤してきたのだ。入り口で軽く挨拶をしてから自分の机に腰を下ろした取手に、雫は軽い気持ちで声をかける。
「取手さん、おはようございます。今日はいらっしゃるんですね」
「はい、おはようございます。今日は少年への診察がありますからね」
落ち着いた表情で答える取手に、雫の心も少しほだされていく。慣れてきたとはいえ、職員室に一人でいて寂しさを感じていなかったと言ったら嘘になる。
取手は穏やかな表情のまま、会話を続けた。
「そういえば、寺戸さんの処遇、決まりましたね」
「はい。児童自立支援施設又は児童養護施設送致で。今の寺戸さんに最大限合った処遇になったと思います」
「そうですね。寺戸さんを今の家庭環境から切り離す必要があるとは僕も感じていましたから。寺戸さんがこれから自分らしい人生を歩めるよう、願うばかりです」
「はい。それと取手さん、今回はありがとうございました」
雫がそう言うと、取手は少し不思議そうな顔を浮かべていた。どうして感謝されているのか分からないというように。
「いえいえ、僕は自分の仕事をしただけですよ」
「それもあるんですけど、私に色々お話をしてくれてありがとうございました。特に智章くんの話は、この言い方が正しいのか分からないんですけど、とてもためになりました。寺戸さんへの接し方の参考にさせていただいた部分も大きかったです」
「そうですか。まあ、僕も智章のことがあって、児童虐待はまるっきり他人事ではありませんでしたから。僕の話や経験が、山谷さんのお役に立てたようで何よりです」
「はい。本当にありがとうございます。それと、あれから智章くんはどうしてますか? お話しいただいたときからまだあまり時間も経ってないので、あれなんですけど」
「そうですね。実は先週が智章の誕生日でして。少し電話をしたんです」
「えっ、そうだったんですか!? おめでとうございます」
「ありがとうございます。電話をした限りでは、智章も元気そうでしたよ。大学も勉強は大変だけれど、サークルに入って友人もいるようですし、それに一人暮らしも慣れてきて楽しくなってきたと言っていました。声も弾んでいて、智章が元気そうなことに僕たちもホッとしました」
そう安堵したような表情を見せている取手に、雫も深く頷く思いだった。智章がつつがなく大学生活を送れていることに、会ったこともないのに嬉しくなるようだ。
「そうですか。智章くんが前向きに日々を送れていることは、私としてもよかったなと思います」
「はい。また正月になったら順也とともに帰ってくるみたいですし、僕はそのときが今から楽しみです」
「そうですね。良い年末年始になるといいですね」
雫の言葉に取手も「はい」と深く頷いていて、雫はこの場に合ったことを言えたようだった。
穏やかな表情をしている取手に、雫は東京で暮らしている両親の顔を思い浮かべる。いつ休みが取れるのかはまだ分からないが、それでも年末年始になったら一度は帰ってみようと思う。盆にも帰っていなかったから、きっと諸手を挙げて迎えてくれるはずだ。
そのときのことを想像すると、雫の心も軽くなるようだ。今日も、新鮮な気持ちで業務に取り組もうと思える。
取手と話しながら雫が年末年始のことについて思いを巡らせていると、職員室には別所や平賀、那須川が立て続けに戻ってきた。今日出勤している全員が揃って、全体朝礼が始まる。
また新しい一日がスタートすることに、雫は改めて気を引き締めた。