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第84話


「家裁の職員からだったよ。寺戸さんの処遇が決まったって」

「どうなったんですか?」

「寺戸さんは児童自立支援施設又は児童養護施設送致になったって。家庭環境に問題があることが認められて、本人も反省していることから、保護処分に処すほど非行の程度が進んでいるとは言えないって判断だね。私たちが通知書に記載した内容を、裁判官の人たちも十分考慮してくれたみたい」

 別所の説明を聞いて、雫は大きな安堵を抱いた。自分たちの仕事を、また一つ全うできた実感がある。

「そうですか。よかったです。家裁も寺戸さんが抱える事情を十分理解してくれたみたいで」

「そうだね。もちろんこの処遇が適切なものになるかどうかは、これからの寺戸さんや福祉施設の方々をはじめとする周囲の人たちにかかってるんだけど、それでも私も今の段階では、一番寺戸さんにふさわしい処遇になったと思う。私も今はちょっとホッとしてるよ」

 一つ肩の荷が下りたかのような表情をしている別所に、雫も「そうですね」と穏やかな声で答える。

 二人が安堵した表情を見せているからか、職員室の空気も電話が鳴る前よりは砕けたものになっていた。

「じゃあ私、家裁に寺戸さんたちを迎えに行ってくるから。その間山谷さんは、寺戸さんの退所の準備を進めててね」

「分かりました」と雫が頷くと、別所は公用車の鍵を持って職員室を後にした。再び職員室に一人取り残されるものの、自分たちが意見した通りの処遇が出た今、雫はさほど心細さを感じなくなっていた。

 寺戸に関する書類を整理し、ロッカーの鍵を開ける。スマートフォンや私服など寺戸の私物を久しぶりに見て、雫は少し胸がすく感覚がした。



 別所が寺戸たちを連れて戻ってきたのは、鑑別所を出発して三〇分ほどが経った頃だった。

 玄関に出た雫が顔を合わせたとき、寺戸の表情は家庭裁判所に向かう前とあまり変わっていなくて、これから先の児童自立支援施設又は児童養護施設での生活に不安を抱いていると、雫は察する。隆志や奈月の顔にも「少年院送致にならなくてよかった」という思いと「自分たちから寺戸が離れていってしまうのか」という思いが混ざり合っていて、その微妙な表情は一言では言い表せなかった。

 雫は隆志たちに少し中で待ってもらうように告げ、寺戸を再び居室に連れていく。中には私服をはじめとした寺戸の私物が、整頓して置かれていた。

「準備ができたら声をかけてください」と告げ、雫はドアを閉める。外でじっと待っていると、数分した後に「準備できました」と、遠慮がちな寺戸の声が聞こえてくる。

 パーカーにジーンズという寺戸の格好は、間違いなく雫が初日に見た寺戸の姿そのものだった。

「寺戸さん、少年審判並びに数週間にわたる鑑別所での生活、お疲れ様でした」

 最後にもう一度だけ雫が声をかけると、寺戸はおずおずとだが確かに頷いていた。そのどこかはっきりしない態度にも、雫は今さら多くのことを感じない。

「では、行きましょうか」

 雫はそう呼びかけて、踵を返そうとする。でも、歩き出そうとしたところで、寺戸がついてくる気配はなかった。

 雫が振り返ると、寺戸はその場に固まってしまっている。表情もようやく退所できるというのに、どこか引きつっているようだ。

「寺戸さん、どうかされたんですか?」

「……あの、僕はこれからどうなるんでしょうか?」

 そう言う寺戸の目は伏せられていて、雫はやはりこれから先に対する不安に苛まれているのだと感じる。

 少しでも安心してもらえるように、雫は最大限落ち着いた口調を心がけた。

「寺戸さん。家庭裁判所でも説明があったと思いますが、ひとまずは対象となる児童自立支援施設もしくは児童養護施設の受け入れ態勢が整うまで、寺戸さんは児童相談所に一時保護される形となります。それでも、数日すれば受け入れ態勢は整うと思うので、そこまで心配しなくても大丈夫ですよ」

「いや、でも……」

「確かに寺戸さんが不安なのも分かりますけど、大丈夫ですよ。おそらく寺戸さんが行くことになるであろう児童養護施設も私は見てきたことがありますが、とても開放的な空間です。先生方も皆優しいですし、寺戸さんに暴行を加えるような大人は誰一人としていないと、断言できます。もちろん最初のうちは、慣れないことも多々あるかもしれませんけど、それでも寺戸さんなら生活をしていくうちに慣れていくだろうと、私は思っています」

 雫が穏やかな声で呼びかけても、寺戸の表情はまだ解れてはいなかった。強張っている表情に、少年審判が終わってもなお緊張し続けていることを、雫は察する。

 寺戸が今どんな風に感じているか。それは経験が浅い雫でも、何となく想像がついていた。

「……もしかして寺戸さんは両親と離れることを後ろめたかったり、申し訳なく思っていたりしませんか?」

 雫がそう言うと、寺戸は顔を上げて雫のもとを見てきていた。かすかに驚いたような目と少し開いている口から、雫は自分の言ったことがあながち間違いではないと感じる。いくら虐待を受けている疑いが濃厚とはいえ、親は親だ。

 そして、寺戸はそんな両親のもとを初めて離れようとしている。不安に思うなという方が、無理な話だろう。

「寺戸さん。こういう言い方はあまりよくないのかもしれませんが、今まで寺戸さんの両親は寺戸さんに暴力を振るったり、それを見過ごしたりすることで、寺戸さんの人生を損なってきたんです。寺戸さんの主体的な人生を奪ってきたんです。寺戸さんがどう思っているにせよ、これが客観的な現実です」

 寺戸は反論しなかった。もしかしたら鑑別所に入所して、一時的にでも両親と引き離されたことで、自分の家庭環境を冷静に振り返ることができたのかもしれない。

 その目は、ただじっと雫を見つめている。雫も寺戸に伝わるように、真剣な表情と口調を心がけた。

「寺戸さん。今回児童自立支援施設もしくは児童養護施設に入所するということは、今まで両親に貶められてきた寺戸さんの人生を取り返す機会が与えられたということなんです。時間は戻ってこないけれど、それでも損なわれた心は取り戻すことができる。もちろんそれは施設での寺戸さんの過ごし方や周囲の大人の関わり次第ですが、でも私は寺戸さんならそれができると思っています」

 雫が話している間、寺戸の目は雫から離れていなかった。思えばここまで寺戸と明確に目を合わせるのは、雫にとっては初めてだ。

 改めて見てみると、寺戸の目は吸い込まれてしまいそうな深みを湛えていた。

「寺戸さん、今日がスタートです。今日が寺戸さんの新しい人生の、最初の一日なんです。そう思うと、少しワクワクしてきませんか?」

 そう雫が言うと、寺戸はふっと小さく笑ってみせた。その微笑みも、雫は今になって初めて見る。

「いえ、しないです」

「そうですか。では、そろそろ行きましょうか」

 少し微笑みながら言った雫に、今度は寺戸も言葉にはしなかったが、首を縦に振っていた。表情も少しだけだが硬さが取れてきている。

 雫が踵を返して歩きだすと、寺戸もしっかりとついてくる。

 二人は両親や別所が待つ玄関へと向かう。寺戸の足取りがわずかにでも軽くなっていることを、雫は振り返らずとも背中で感じた。

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