寺戸の判定会議はその後もスムーズに進み、雫が経験したなかでも一番短い時間で終わっていた。鑑別所からの処遇意見は児童自立支援施設又は児童養護施設送致に固まり、もちろんこれがそのまま少年審判の結果に反映されるわけではないが、それでも自分の意見も採用されたことに、雫は手ごたえを感じずにはいられない。寺戸のために、自分たちが持てる力は全て発揮できたと思える。
雫たちが職員室に戻ると、今度は入れ替わるように那須川が湯原と平賀に声をかけて、職員室から出ていく。寺戸と共犯で入所した、松兼への判定会議を行うためだ。
その間、雫たちはパソコンに向かって、書類の作成等のデスクワークに勤しむ。
でも、松兼の判定会議はなかなか終わらなかった。一時間が経っても二時間が経っても、三人は職員室に戻ってこない。
それだけ会議が難航しているのだろうかと、雫は仕事をしながら少し気を揉んでいた。
湯原たちが戻ってきたのは、雫があと少しで今日の勤務を終え、退勤しようかという頃だった。二時間以上にも及んだ判定会議のためか、三人の表情には少し疲労の色が窺える。
自分の席に戻って一つ息を吐いていた湯原に、雫は「お疲れ様です」と声をかける。「おう」と応じた湯原は、凝り固まった身体を解すかのように、大きく伸びをしていた。
「松兼さんの判定会議、大変だったんですね。こんなにも時間がかかったってことは」
「ああ、検討しなければならない事項も多かったからな。なかなか難航したよ」
湯原は表情だけでなく、声からも疲労を漂わせていて、雫にも今はそっとしておいた方がいいのではないかと思わせる。
それでも、雫は松兼の判定会議が行われている間抱いていた関心を、留めておくことはできなかった。
「それで、どうだったんですか? 松兼さんへの処遇意見は、どのようになったんですか?」
「まあ、結論から言うと少年院送致だな。事案の程度もそうだけど、本人はまだ寺戸さんが主導してやったと言っていて、反省が深まっているとはとても言えないからな。少年院送致に付して矯正教育を受けさせるのが最善だろうと、そういう結論になった」
湯原はこともなげに言っていたけれど、その言葉に雫はたとえ小さくてもインパクトを感じてしまう。
もちろん少年院は、刑務所ではなく保護施設だ。雫が配属されてから今まで、少年院送致になった少年もいる。
それでも「少年院」という単語に、雫はわずかにでも差し迫ったものを感じてしまう。一端とはいえ専門家である雫ですらそうなのだから、松兼たちが抱く衝撃はいかほどだろう。
「そうなんですか。それなら時間がかかったのも納得です」
「ああ。ところで、お前の方の寺戸さんはどうなんだよ? どんな処遇意見で固まったんだ?」
「はい。私も別所さんも、児童自立支援施設又は児童養護施設送致が妥当であるという所見で、それがそのまま処遇意見として固まりました。寺戸さんは児童虐待を受けている疑いが濃厚で、父親から日常的に振るわれる暴力が、誤った問題の解決方法として認識された可能性が、否定できませんから。本人も『野村さんに謝りたい』と反省の意思を示していますし、そう考えると保護処分までは必要ないかと」
「まあ、それが妥当なとこだろうな。寺戸さんが児童虐待を受けているかもしれないことは、俺たちでさえ聞いていることなんだから」
「はい。でも、大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫って何がだよ」
「もし二人に、私たちが通知書に記載した内容の通りの処遇が下されたとして、松兼さんは不満には思わないでしょうか?」
「そりゃ思うだろうけど、でもそんなことは関係ないだろ。家裁が下した処遇には、ひとまずは従うしかないからな」
「それはそうなんですけど、でも松兼さんは不公平さを感じてしまわないでしょうか?」
「山谷、お前だって分かってるだろ。たとえ同じ事案に関わっていても、少年の境遇や反省の状況によって、下される処遇はいくらでも異なるって。松兼さんは特に家庭環境には問題を抱えてなくて、反省は進んでない。でも、寺戸さんは家庭環境に問題を抱えていて、反省も進んでいる。これで同じ処遇が下されたら、その方が不公平ってもんだろ」
諭すように言う湯原に、雫は自分が見当違いなことを考えていたことに気づいた。
成人と違って、少年には個別処遇の原則がある。それは集合研修でも最初に習ったことだというのに。印象が先に出ていた自分を、雫は内心で恥じた。
「そうですね。湯原さんの言う通りだと思います」
「ああ、ところでお前そろそろ退勤時間じゃないのか? いつまでもここにいていいのかよ」
「そうでした。では、湯原さん。お先に失礼させていただきます」
「ああ、お疲れ」
雫は湯原の他にも、まだ仕事が残っている平賀や那須川にも声をかけて、職員室を後にした。
鑑別所を出ると、木枯らしが吹きつけてくる。冬はすぐそこまで迫っていた。
その日、雫は朝の六時を回る前に目が覚めていた。窓の外はすっかり明るく、部屋は寝ている間にも欠かせなくなった暖房が効いている。
スマートフォンのアラームが鳴る前に目が覚めた理由にも、雫ははっきりと思い至る。今日は、寺戸の少年審判の当日だ。
寺戸にどんな処遇が下るのかと思うと、雫はソワソワしてしまう。少年審判当日は何度迎えていても、雫は未だに慣れてはいなかった。
早く目が覚めてしまった分、なんとなく音楽を聴いて、雫は気持ちを落ち着かせようと試みる。でも、逸る気持ちは完全に静まることはなく、雫はそのまま鑑別所に出勤していた。
全体朝礼を行うと、雫はすぐさま居室に寺戸を迎えに行く。寺戸の少年審判は、家庭裁判所でも最初の時間帯である午前一〇時から予定されていた。
雫が声をかけて居室のドアを開けたとき、寺戸は静かに座っていた。その表情には少年審判に対する緊張の色が見えたが、雫には当然だと思える。自分の処遇が決まる場で、緊張しない少年はいない。
それでも、雫が「寺戸さん、家庭裁判所に行きましょう」と声をかけると、寺戸は素直に立ち上がっていた。目には心細さが覗いていたけれど、雫は努めて穏やかな表情を心がける。家庭裁判所がどんな判断を下すのかは分からないが、それでもこの世の終わりみたいに怯える必要はないと伝えたかった。
雫が寺戸を連れて鑑別所の外に出ると、すでにそこには寺戸の両親である隆志と奈月が揃って待っていた。二人を目にしたとき、寺戸の表情はかえって強張っていて、寺戸が過ごしてきた家庭環境を雫に改めて思わせる。
「今日は瞬のためになる結果が出るといいね」と声をかけてきた奈月への反応も鈍く、それは単純に緊張しているからだけではないだろう。
隆志を助手席に、寺戸と奈月を後部座席に乗せて、別所の運転のもと公用車は家庭裁判所に向けて出発した。それを見送りながら、車の中でも家庭裁判所に着いてからも何事もないことを、雫は祈るばかりだった。
寺戸たちを見送った雫は、職員室に戻って自分の仕事に励む。他に担当していたり、少年相談に訪れている少年の記録や資料を整理し、パソコンで諸々の書類を作成する。
でも、その間も雫はずっと寺戸のことを意識し続けていた。いつの間にか、時刻は一〇時を回っている。予定通りなら、今は寺戸の少年審判が行われている真っ最中だろう。
寺戸がどんな姿勢で自分の少年審判に臨んでいるか、ふとした瞬間に想像して、すぐに今はそんなことを考えている場合ではないと打ち消す。それでも、寺戸のことをまったく意識しないことは、雫には少し難しかった。
寺戸たちを家庭裁判所に送り届けた別所も戻ってきてデスクワークに取りかかり始めたことで、職員室にいる人間は雫だけではなくなる。たとえ会話がなくても二人ともが寺戸のことを気にしていることは、雫には別所から発せられる雰囲気で分かった。
そのまま特に二人とも何かを話すことなく、数十分が過ぎる。そろそろ寺戸の少年審判も、結審している頃だろう。そう雫が何度目かも知れない思いを抱いたとき、机上に置かれた電話が着信音を鳴らした。
雫よりも別所の方が受話器を手に取るのが早く、雫は手を動かしながら、それでも電話をしている別所に耳をそばだてる。電話の内容はおそらく寺戸の処遇についてだろうが、それでも別所は相槌を打っているだけで、電話の向こうにいる家庭裁判所の職員が何を話しているかは、雫には分からなかった。たった二分や三分の電話が、雫にはその何倍にも長く感じられる。
別所が受話器を置いたとき、雫はすぐさま「誰からの電話でしたか?」と訊いていた。