夜中に降った雪が道端に積もり、路面を凍らせる中、湯原は自家用車を走らせていた。万が一がないように安全運転を心がけながら、市の南部を目指す。助手席には、駅前のデパートで買った菓子折りが紙袋に入って置かれている。
ハンドルを握りながら、湯原は自分が緊張していることを感じた。そこを訪れるのは、湯原にとっては実に十年以上ぶりのことだった。
自宅から三〇分ほど運転を続けて、湯原は一軒の家の前に車を止めた。二階建ての立派な一軒家は最近外壁を塗り直したのか、新鮮な印象を湯原に与える。
数段の階段を上り、湯原は玄関の前に立つ。表札に書かれた名前を今一度確認してから、湯原はインターフォンを押した。
「はいはーい」と言って玄関を開けたのは、妙齢の女性だった。最後に会ったのがもう十数年前のことだから、さすがに顔には小皺が増えていたけれど、それでも人のよさそうな優しい面持ちは変わらない。
自分が今日家に行くことは、湯原も事前に伝えてある。でも、かすかに目を丸くしているその女性に、湯原は穏やかな声で語りかけた。
「
「ああ、湯原君。あけましておめでとう。本当に久しぶりね。凄く立派になって」
「はい、あけましておめでとうございます。それとありがとうございます。あの、
「うん、今ちょうどテレビを見てるとこ。さ、上がってて。お茶入れてあげるから」
「はい。では、お言葉に甘えて。あとこれつまらないものですが、よろしければ」
そう言って湯原は、暁海に菓子折りを差し出した。「わざわざありがとね」と暁海が受け取ったのを確認してから、靴を脱いで上がり框を跨ぐ。そして、廊下を少し進んだ先にあるリビングに入った。
ウォームブラウンでまとめられた家具が統一感を与え、壁際には息子夫婦の写真が何枚も貼られていて、その中には神原が初めて見る、孫と思しき子供の姿もあった。それが時間の経過を神原に感じさせる。
それでも、嵐山は立ち上がって、変わりのない笑顔を湯原に向けてくれていた。その表情に、湯原の緊張していた心も落ち着いていく。十年以上もの時間が、一瞬にして縮まったかのようだ。
「ああ、湯原君。待ってたよ。あけましておめでとう」
「はい。嵐山先生、あけましておめでとうございます。それと遅くなりましたけど、還暦おめでとうございます」
「ああ、ありがとうな。湯原君もしばらく見ないうちに、大分大人になったじゃないか」
「それはまあ、もう三七ですから」
「そうかそうか。そうだったな。まあ、こたつにでも入ってゆっくりしていきなさい。いつまでも立ってるわけにはいかないだろう?」
「はい。では、お言葉に甘えさせていただきます」
そう返事をして、湯原はリビングの前方にあるこたつに、嵐山とともに入った。足を伸ばすわけにはいかなかったが、それでもじんわりとした暖かさを感じる。
少しすると、暁海が急須で入れたお茶と、盆に入った個包装の菓子を持ってきた。「ありがとうございます」と礼を言うと、暁海はリビングと繋がっているダイニングに戻っていく。
久しぶりの再会に嵐山と二人だけでいさせてくれるその配慮が、湯原にはなおのことありがたい。おかげで会話のきっかけも、簡単に掴むことができた。
「嵐山先生、本当にお久しぶりです。あの、お孫さんお生まれになったんですね」
「ああ、もう六歳で今年から小学校だよ。ついこの前生まれたばかりだと思ってたのに、時が過ぎるのは速いな」
「そうですね。この年末年始にも会われたんですか?」
「ああ、二日に来てくれたよ。すっかり大きくなって、祖父の目を抜きにしても、可愛かった。今年もお年玉をあげられたのは、とても嬉しかったな」
「そうですか。それはよかったです」
「ああ、春休みには一緒に泊まりで草津に旅行に行くことになってるし、そのときが今から楽しみだ」
そう言う嵐山は目元を思いきり緩ませていて、孫を溺愛する良いおじいちゃんになっていることを湯原に思わせた。息子夫婦とも良好な関係を築けていることも、素直に喜ばしい。
でも、その一方で「それはいいですね」と返事をしながら、湯原は流れた時間の長さを思わずにはいられない。変わらないものなどないという事実に、ハッとさせられるようだ。
「ああ、仕事も相変わらず続けられてるし、俺としても人生で今が一番充実してる感覚があるよ。ところで、湯原君はどうなんだ? 少年鑑別所での仕事、続けられてるのか?」
「はい。おかげさまで、今でも続けられることができています」
「そうか。それは何よりだ。どうだ、仕事の調子は? ちゃんと少年のためになる鑑別ができてるのか?」
「はい。そのために、今もまだ日々勉強している最中です。少年に対してより良い鑑別を行うためには、日々の勉強が欠かせませんから。少年と接する度に、まだまだ学ばなければならないことはあるなと、気づかされる毎日です」
「まあ、それもそうだな。この世界、一生勉強だからな。でも、湯原君がそういった向上心を持っていて、安心したな。法務技官を志したあのときの気持ちを、まだ持ち続けているようで」
「はい。常に新鮮な気持ちで接していないと少年にも失礼ですから。鑑別所に配属されて法務技官になったときの気持ちは、まだ持ち続けているつもりです」
「そうか。湯原君、本当に立派になったんだな。俺には湯原君が将来そういった分野で働きたいと言ってきた日の驚きが、昨日のように思い出されるよ」
「ええ、その節は嵐山先生には大変にお世話になりました。少年法をはじめとした法律知識の勉強を手伝ってくれて。今でも本当に感謝しています」
「ああ。俺としても、湯原君が立派に働き続けてくれているようで嬉しいよ。かつての自分のような少年に対して、何か力になりたいだったよな。その目的は果たせてるのか?」
きっと嵐山は何の気なしに口にしたのだろう。
だけれど、湯原はその言葉に胸を突かれるような思いを感じずにはいられない。
脳裏によみがえるのは、あの日の記憶だ。それはいくら時間が経ったところで忘れられるものではないし、忘れてもいけないだろう。あの日の自分と、今の自分は地続きなのだ。
その自覚があったからこそ、湯原ははっきりと胸を張って断言することはできない。
「それは正直なところ、まだ分からないですね。まだ道半ばというか。もちろんゴールに辿り着くことは永遠にないんでしょうけど、でも今はそのためにもこの仕事を続けていかなければと感じています」
「そうだな。俺も常々感じるけど、俺たちの仕事にゴールなんてないもんな。ただ目の前の相手に対して、持てる力を尽くす。その繰り返しだ。だから、湯原君も鑑別所での仕事を続けてくれよ。湯原君の仕事によって救われる少年は、確実にいるんだからな」
「はい。肝に銘じておきます」そう返事をしながら、湯原は判然としない思いも抱えていた。
いくら自分が法務技官の仕事に邁進したところで、あの出来事がなくなるわけではない。本当の意味での罪滅ぼしは、いくら少年に接したところで湯原にはできないのだ。
でも、だからこそ湯原は、今の仕事を続けるしかないと思える。法務技官の仕事は、今の湯原にとって唯一社会と繋がれる道だった。
真面目な表情をした湯原に、嵐山も確かに頷いている。「これからも頑張れよ」と言っているようで、湯原は今一度背筋を伸ばした。