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第142話


 その日、仕事が休みだった湯原は日がな一日を家の中で過ごしていた。買ってあった小説を読んだり、サブスクリプションサービスで映画を観たり。

 鑑別所での仕事は、非行を犯した少年と接することもあって、それなりに神経を使う。だから、貴重な休日を湯原は心身ともにしっかりと休めることに充てていた。

 夕食に出前のピザを食べ終わってからも、湯原はゆったりとした時間を過ごす。テレビを流しながら、ソファに深く腰かけて、スマートフォンで何の気なしにSNSを眺める。

 今日は一日ゆっくり頭と身体を休めることができた。これで明日からの仕事も、また精力的に取り組めるだろう。そう思いながらSNSを見ている最中だった。その投稿が目についたのは。

〝【速報】長野市で一三歳の少年が死亡〟

 それは、長野を拠点とする地元紙のアカウントが投稿したニュースだった。その文字列を目にした瞬間、湯原は息が止まるような心地を味わう。即座に理解はできず、心臓の鼓動は速まっていく。視界が一瞬、ぼやけて見えてくるほどだ。

 もちろん、ただでさえ少年の死は痛ましいものだが、湯原にはよりそう感じられる理由がある。

 テレビの電源を切って、湯原は呼吸を整えてから、その記事をタップした。

 湯原は落ち着くように自分に言い聞かせながら、記事の内容を一文ずつ読んでいく。

 今日午後六時頃、長野龍崎中学校で一三歳の少年が意識不明の状態で発見され、搬送された病院で死亡が確認された。長野県警は同じ中学校に通う少年(13)を、重要参考人として連行した。

 短い記事の内容はそう要約できたが、それを湯原は落ち着いて読めてはいなかった。頭が忙しなく回る。

 それはスマートフォンから目を離して、テーブルの上に置いてからも続いた。ただ座っているだけなのに、汗さえかいてきそうだ。

 すぐにまたスマートフォンを手に取ったり、テレビをつけたりすることも湯原にはできなくて、どうにか息を落ち着けるように試みる。

 テーブルに置いたスマートフォンが着信音を鳴らしたのは、湯原が息を落ち着けようとしている最中だった。急に鳴った音に、湯原は思わず声を漏らすほど驚いてしまう。

 電話をかけてきたのは、母親である智子ともこだった。普段めったに電話をかけてこない智子が、このタイミングで電話をかけてきたことに、湯原はその理由を察してしまう。一瞬、出ることをためらってしまう。

 それでも、智子からの電話に出ないという選択肢は、湯原にはなかった。おそるおそるスマートフォンを手に取り、電話に出る。「もしもし、母さん。どうしたの、急に?」と、何事もないような口調を心がける。

 でも、その声に自分でもわずかに震えていると湯原は気づいた。

「ああ、もしもし、賢哉。今、ちょっと話せる?」

 智子の口調も少し逸っていて、湯原は自分が察した電話をかけてきた理由が、より明確に感じられていく。

 それでも、湯原は「うん、大丈夫だけど」と、できる限り普段通りの声を心がけた。まだ速まったままの鼓動を意識しながら。

「あ、あのね、賢哉。私は今テレビでローカルニュースを見て知ったんだけど、長野市で一三歳の少年が亡くなったこと、賢哉は知ってるの……?」

 智子が口にした電話をかけてきた理由は、外れていてくれと願っていたけれど、それでも湯原の推測と寸分違わず一致していた。心臓がバクバクとうるさく鳴る。

「……うん、知ってるよ。SNSで速報を見たから」

「そう……。ねぇ、賢哉、大丈夫?」

 智子がそういった声をかけてくることは、電話がかかってきたときから、湯原にも十分想定できたことだった。

 でも、だからといって、それは十分な準備ができていたことを意味しない。「……大丈夫って、何が?」と答えたけれど、その声はまったく平静を装えてはいなかった。

 智子が次に何を言ってくるのかさえ、湯原には明確に分かるのに。

「いや、今回のことで賢哉が昔を思い出してないかって、お母さん心配で……。大丈夫なんだよね……?」

 想像通りの智子の言葉に、湯原は心に釘を刺されたような心地を味わった。確かに自分はかつてのことを思い出して、傷つきとも焦りとも似つかない感覚を抱いている。

 だけれど、自分にそう思う資格があるのかとも、湯原は自問自答していた。自分よりももっとショックを受けて傷ついている人間は、世の中に何人もいるだろう。

 そう思うと、湯原にはこの感覚が自分に似つかわしくないと感じられてしまう。

「大丈夫だよ。今回のニュースは、俺とは何も関係ないんだし。もちろんショックはショックだけど、母さんが思うような事態にはなってないから、安心していいよ」

「そう……? ならいいんだけど。ねぇ、賢哉。思い出すなとは言わない。賢哉があのときのことを思い出していても当然だと、私は思うから。でも、あまり気に病みすぎないでね。今回のことで賢哉が罪悪感を抱きすぎて、塞ぎこんでしまうことは、私たちは誰も望んでないんだからね」

「分かってるよ。なかなか難しいとは思うんだけど、それでも深く意識しないようにするよ。母さん、電話かけてきてくれてありがとね。心配してくれてありがと」

「うん。じゃあ、賢哉。私、そろそろ切るね。明日からも、賢哉がまたいつも通り仕事に臨めることを願ってるよ」

「うん、ありがと。じゃあね、おやすみ」

「うん、おやすみ。元気でね」

 そう言って智子が電話を切ると、部屋は静寂に覆われた。スマートフォンをテーブルに置いた湯原は、しばらくソファに座り込んだまま動けなかった。

 脳裏に、かつての自分の姿が蘇る。それは決して忘れてはいけないことだったが、改めて思い返してみると、自分がこうして安穏と日々を過ごしていていいのか、湯原は答えのない問いに堂々巡りをするような感覚に陥っていた。




 龍崎中学校で一三歳の少年が亡くなったというニュースは、次の日にはさっそく長野市内でも一番のニュースになっていた。地元紙は一面でニュースを報じ、全国区のニュース番組でも取り上げられる。

 それは鑑別所内でも同様だった。出勤するやいなや後輩の法務技官である山谷が、湯原にニュースのことを尋ねてきたのだ。湯原にとってはあまりいい気分ではなく、返事もそっけないものになってしまう。

 それでも湯原は、最大限普段と同じような態度を取ったつもりだ。山谷は自分の過去のことを知らないのだろうか。

 でも、湯原の口からそのことについて山谷には話したことがなかったし、尋ねてきた様子から見るに本当に知らないようで、それは誰も勝手に湯原の過去のことを話していないということだったから、湯原にはいくらか望ましい状態でもあった。

 龍崎中学校での事案(になってしまった)が起こってから、一週間が経った。その日は山谷は休みで、湯原も普段通りに少年相談やデスクワークといった自分の仕事を行っていた。

 そんなときだった。湯原が平賀とともに那須川に呼ばれたのは。

 二人は那須川の机の前に立つ。那須川は座ったまま、一つ息を整えてから二人に告げた。

「湯原さん、平賀さん。龍崎中学校での事案において、一三歳の少年が被疑者として逮捕されたのは知っていますね?」

 那須川がそう言った瞬間、湯原は自分の心臓が跳ね上がったことを感じてしまう。「はい」と返事をした声も、どこか覚束なかった。


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