「それで、その少年は児童相談所から家庭裁判所に送致されたのですが、先ほど家庭裁判所から連絡があり、少年には観護措置を採り、少年審判まで鑑別所で収容して、鑑別を行うことが決まりました」
それは湯原にとっても十分予測できた事態だった。事案の重大性を鑑みれば、むしろそれが妥当だとも思える。
それでも、湯原は一瞬返事に詰まってしまっていた。いざ面と向かって言われると、心の整理はすぐにはつかない。どうにか「そうなんですか」という返事を絞り出す。
自分たちを呼んだ以上、那須川が次に何を言うのかは、湯原には聞かなくても分かるようだった。
「はい。ですのでその少年、守口秀人さんの担当技官を湯原さんに、担当教官を平賀さんに引き受けていただきたいのですが、二人ともよろしいですか?」
那須川の頼みは、湯原の想像と少しも違わなかった。そうだろうと分かっていても、湯原は息を呑むようだ。
正直に言って、気が重たく感じられる部分は、湯原にもある。それは、殺人という今回の事案の重大性に留まらない。
でも、これは誰かがやらなければならないことなのだと、湯原は思い直す。ここで自分が首を横に振れば、その守口の担当技官は山谷になるのだろう。いくら少しずつ経験を積んでいるとはいえ、まだ山谷は鑑別所に配属されてから一年も経っていない。そんな山谷にこの重大な事案を担当させるのは、山谷のことを評価していないわけではなくても、湯原には気が引けた。
「分かりました。謹んでお引き受けします」そう答えた湯原に、平賀も続く。その瞬間、逃げられないという覚悟が湯原の中で固まった。
「お二人ともありがとうございます。では、まずは警察が作成した守口さんの調書をお配りしますので、しっかりと内容を把握しておいてください」
「はい、了解しました」湯原たちが答えると那須川はその場で、ステープラで留められた数枚の調書を湯原たちに手渡した。自席に戻って、湯原はそれに目を通す。
守口が語った事件の詳しい内容や動機は読んでいるだけで痛ましいものだったが、それでも湯原は脳にインプットするように読み続ける。
だけれど、湯原の目は家庭環境や生育歴の欄で留まってしまう。基本的な家庭情報、特にその母親の名前に、湯原の鼓動は再び速まった。思わず調書から目をそらしてしまう。一つ息を吐いてみても、呼吸は落ち着かない。
その名前は、湯原にとっては見覚えがあるという程度では済まされなかった。心臓がバクバクと鳴り、逃れられない、逃れてはいけない宿痾が湯原にのしかかる。
自分が記憶している名前とは名字が違うし、こんなことを言ったら何だが、漢字まで同じだとしても珍しい名前ではないから、きっと別人だろう。
そう湯原は自分に言い聞かせたけれど、その人ではないかという思いは頭の中で大きく膨らんでいく。罪悪感が今になって再び襲いかかる。
湯原はそのまま調書を読むことができず、席を立っていた。どこへ行くかも分からないまま、ひとまず職員室を出る。
そして、職員室の外で湯原はしばらく佇んだ。速まった呼吸を落ち着けようと試みる。それでも、忙しなく動く口と心臓はなかなか静まらなかった。
宿舎で電子書籍を読んだり、音楽を聴いたり、一人カラオケで二時間ほど歌ってみたり。休日をゆっくりと過ごした雫は、いくらかリフレッシュした状態でまた鑑別所に出勤していた。
だけれど、職員室に入った瞬間、室内の空気がどことなく緊張感を帯びているように感じられる。それは今までの雰囲気とは少し違っていたから、雫は「どうしたんですか?」と、ちょうど職員室にいた別所に訊かざるを得ない。
別所が言うところには、龍崎中学校での事案の被疑者とされている少年が、今日鑑別所に送致されてくるようだ。
そのことを聞いた瞬間、雫の心にも緊張が走る。担当技官は自分ではなかったとしても、鑑別所に殺人の容疑で少年が送致されてくることは配属されてから初めてのことだったから、少し心もとない感覚を抱いた。
外から車の停車音が聞こえてきたのは、午前一〇時を回る数分前のことだった。予定されていた時間よりは少し早かったがタイミング的に、家庭裁判所の公用車がやってきたのだと雫にも察せられる。何の用件かは明白で、実際に湯原と平賀は連れ立って職員室を出ていっていた。
職員室にいながらでも玄関が開く気配がしたのは雫にも感じられて、それは間違いなく守口が鑑別所に入所してきたことを意味していた。
雫も担当技官ではないけれど、それでも一応調書には目を通しているから、守口の顔くらいは知っている。実際に目にしたらどんな印象を受けるのか、見てみたい思いにも駆られる。
だけれど、担当技官でない以上、雫が守口に会うわけにはいかなかった。必要以上の人間と会ってしまったら、守口を警戒させたり、刺激を与えることに繋がりかねない。
それに担当技官でない雫が守口と接する機会は、まったくと言っていいほどない。だから、雫はどれだけ気になったとしても、席を離れるわけにはいかなかった。
雫は自席に座ったままパソコンを見続ける。何人か担当している少年相談の記録をまとめたり、来月に予定されている長野市内の中学校での法的教育の準備をしたり、雫にはしなければならない仕事はいくらでもあった。
それでも、手を動かし続けながらも、守口をまったく意識しないことは、雫には少し難しかった。今は守口は、湯原たちから入所時のオリエンテーションを受けているところだろうか。湯原たちの説明に、守口はどのような態度で応じているのだろう。一度気にし始めてしまったら、そればかりが気になって、仕事も手につかなくなるようだ。
それでも、目の前の仕事に集中しなければと、雫は自分に言い聞かせる。余計なことを考えないようにするためにも、雫はさらに手を動かし続けた。
湯原たちが職員室に戻ってきたのは、玄関に守口を迎えに行ってから、一時間以上が経った頃だった。自席について再びデスクワークに取り組み始めた湯原に、雫は守口のことを訊こうか一瞬迷う。だけれど、必要がないかもしれない話で湯原の手を止めてはいけないだろう。
「お疲れ様です」とだけ声をかけて、雫は再び自分の仕事に戻る。その間も雫の頭には、守口のことが気になるという思いが渦巻いていた。
雫たちがそれぞれの仕事に取り組んでいると、時刻は正午を迎える。雫たちにとっては昼食休憩の時間だ。
自分の仕事を中断してから、雫は湯原に「あの、少しいいですか?」と声をかける。湯原はわずかに不満そうな表情を覗かせていたけれど、雫としては尋ねるならこのタイミングしかなかった。
「単刀直入に訊きますね。今日入所してきた守口さんは、どんな様子でしたか?」
回りくどい前置きは意味がないと感じて、直接的に訊いた雫にも、湯原は「どうしてお前にそれを言う必要があるんだよ」とつれない。冷ややかな態度に雫は出鼻を挫かれそうになったものの、それでも「いや、別に教えてくれたっていいじゃないですか。何か影響が出るわけでもないですし」と食い下がる。
湯原との接し方は配属されてからの時間で、雫は少しずつ心得てきていた。
「まあここで俺が言わなくても、どうせ平賀に訊きにいくんだろ?」
ため息交じりにそう言った湯原に、雫は小さく頷く。図星を指された以上、ごまかしても仕方がないと感じた。
「まあ、平賀は平賀で言いそうだし、別に俺から言っても同じか」
ひとりでに納得したような湯原を、雫は少し意外に思う。これまでの印象から、「平賀に訊けよ」と言われる可能性も低くはないと考えていたからだ。
「そうだな。まず鑑別所にやってきたときの守口さんだけど、はっきりと不安げな表情を見せてたな。まるで刑務所に入れられて一生出てこられないみたいな、絶望している様子も見て取れた。俺たちがここは刑務所ではなくて、少年審判が終わるまでの間いるだけですよって説明しても、俯いててちゃんと理解している様子はなかったな」
湯原が語ったことに、雫には程度の差こそあれ、他の少年と同じようなことを守口は感じていたと捉えられた。どんな少年でも、これから行われる少年審判に対して、不安を感じずにはいられないだろう。少年鑑別所の役割さえ完全に理解してはいない者もいるのだから、守口が絶望的に思うことも理解できる。
被害者である神山の遺族や関係者はもっと絶望しているとは、わざわざ口に出さなくてもいいように思えた。
「そうですか。きっと今回送致されてきた理由も極めて重大なものですから、そう思ってしまう部分も大きかったのかもしれないですね」
「ああ。オリエンテーションで所内を案内するときも、ここでの過ごし方やスケジュールを説明しているときも、ずっと顔は下がったままだったな。口を結んで、泣き出したいのをどうにか抑えているようにも見えた。俺たちが『何か訊いておきたいことはありますか?』って振っても、『ごめんなさい。許してください』としか言わなくて。今回のことが起きて、既に心から反省している様子は俺たちにも窺えたけど、この様子で明日からの初回面接や鑑別所での生活がどうなっていくのか、少し先が思いやられる部分はあったな」
「それは大変ですね。私だったらどのように接していけばいいのか、少し途方に暮れてさえしまいそうです」
「ああ。でも、そんななかでも俺たちは面接や行動観察を通して、鑑別をしなきゃならないからな。俺もこれから色々と対応を考えて、明日の初回面接が有意義なものになるよう工夫してみるよ」
湯原の声は淡々としていて、「大変だ」と感じている心情をなるべく表に出さないようにしていることが、雫にも窺われた。ここで「頑張ってください」と言うのは、どこかずれている気がする。
だから、雫は「はい。教えていただきありがとうございました」と、シンプルに礼を言うだけに留めた。「ああ」と返事をした湯原は雫から目を逸らし、昼食に買っていたコンビニエンスストアのパスタを食べ始める。雫もこれ以上訊くのは適切ではないと判断して、近所のスーパーマーケットで買った惣菜パンを口にし始めた。
スマートフォンを見ながら、雫は守口に思いを馳せる。今は平賀の立ち会いのもと、昼食を食べているところだろうか。守口が今どんな様子でいるのか、雫はスマートフォンを見ながらでもぼんやりと意識していた。