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第144話


「お先に失礼します」と山谷が職員室を後にし、宿舎に戻っていったのは、夕方の六時を少し回った頃だった。平賀は別の少年の行動観察をしている最中で、取手も今日は非番だったから、そのとき職員室には湯原と別所、それに那須川しかいなかった。

 山谷が帰った後も、湯原は明日行われる守口の初回面接の準備をするために、しばし職員室に残り続ける。調書を今一度読み返し、必要な心理検査をリストアップする。

 そうして必要な準備を整えていると、時刻は夜の七時を回った。既に窓の外は暗くなり、完全な夜となっている。

 準備に一段落がついて、湯原は帰る支度を始める。冷え込む夜に、まだまだコートは欠かせなかった。

「那須川さん、お世話様でした。お先に失礼します」

 別所にも簡単に帰りの挨拶をしてから、湯原は那須川のもとに挨拶に向かった。那須川も仕事をする手を止めて、湯原を見上げている。

「はい。湯原さん、お疲れ様でした。あの、まだ少し話していくことはできますか?」

 そう尋ねてくる那須川に、湯原は頷いていた。今日も、特にどうしても早く帰りたい用事はなかった。

「今日入所してきた守口さんは、どんな様子でしたか? 何か気になったことがあれば、教えていただきたいのですが」

 那須川が口にした話題は、湯原にとっても今の状況に合っていると感じられた。一緒になってオリエンテーションを実施した平賀から大体のところは聞いているはずだが、それでも自分の口からも守口の様子や印象について聞きたいのだろう。

「そうですね。とても委縮していた様子でした。どこを案内しても、何を説明しても俯いているばかりで。その表情からは、これから行われる鑑別や少年審判に対して、恐怖心を抱いているかのようでした」

「そうですか。事案を起こしてここにやってきた以上、怖く感じたり怯えることはよく見られますが、守口さんの場合は余計にそれが顕著だったんですね」

「はい。とはいえ、明日になったら初回面接をしなければならないので。どうやったらより有意義な面接になるのか、今考えて準備していたところです」

「そうですか。湯原さん、よろしくお願いします。守口さんへの適切な鑑別の第一歩となるように」

「はい。そのつもりです」頷きながら、湯原は思いを新たにした。明日の面接は一対一の対面形式である以上、どういったものになるかは自分に多くの部分がかかっている。責任の重さを改めて感じて、身が引き締まる思いだ。

 でも、話に一つの区切りがついても、那須川は湯原を帰そうとはしなかった。表情をあまり変えずに、落ち着いた口調で言う。

「ところで、湯原さん。大丈夫ですか?」

 自分のことを心配してくる那須川の心情が、湯原には明確に分かった。昨日の帰り際にも、同じことを言われている。それでも、昨日と今日では状況が異なるから、那須川は改めて確認したくなったのだろう。

 逆の立場だったら、自分も同じように声をかけているだろうから、湯原は那須川の心配を無下にはできなかった。

「心配してくださってありがとうございます。でも、僕は大丈夫ですよ」

「そうですか。いえ、実際に守口さんと顔を合わせてみて、湯原さんにも何か感じるものがあって、辛くはなっていないかと思ったのですが、それは取り越し苦労だったようですね」

「はい。心配してくださってありがとうございます」と湯原は答えていたが、そこには嘘が多分に含まれていた。本当は那須川の言う通りだった。

 実際に守口と接して、何も感じなかったなんてあり得ない。むしろ、何事もなかったかのように平気でいられる方が問題だろう。

 それでも、湯原は気丈に振る舞い続けた。一度引き受けた以上、ここで弱音を吐露して守口の担当から外れることはしてはいけなかった。

「分かりました。では、湯原さん。改めてですが、明日もよろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いします」

 今度こそ本当に話が終わったことを察して、湯原は小さく頭を下げてから職員室を後にした。鑑別所の外に出ると、もうすぐ四月になるとは思えないほどの冷ややかな空気が頬に触れる。

 自転車に乗って帰る湯原。頭の中では今日会った守口のこと、そしてかつての自分の姿がぐるぐると回って落ち着かなかった。



 翌日。世間的には土曜日で休日でも、雫は鑑別所に出勤して、まずはデスクワークに取り組んでいた。午後に控えている少年相談に向けて、前回の面談の内容を再確認する。

 そんななかでも雫は、隣の湯原の机が今は空いていることに、ちらちらと意識を向けてしまう。全体朝礼を終えてすぐに、湯原は守口との初回面接及び心理検査に向かっていた。守口がどんな態度を見せていて、湯原と何を話しているのか、気にしないように努めていても、雫にはどうしても気になってしまう。

 自分が直に接していない分、かえって時間が過ぎるのも遅く感じられた。

 それでも、雫が自分の仕事に取り組み続けていると、もうすぐ昼食休憩の時間になるというタイミングで、湯原が職員室に戻ってきた。手に持つクリアファイルには、守口が回答したと思しき心理検査のプリントが入っている。

 湯原は自席につくやいなや、パソコンに向かってファイルに守口との面接の結果をまとめていたから、すぐに声をかけることは雫にも憚られた。「お疲れ様です」とだけ言って、再び自分の仕事に戻る。パソコンに向かっている間も、湯原が何を打ちこんでいるのか画面を覗き見たいという気持ちは、まったくなかったと言えば嘘になった。

 街に鳴り響く正午のチャイムを聞いてから、雫は昼食休憩に入った。だけれど、隣では湯原はまだパソコンに向かい続けている。だから、雫はまだ湯原に声はかけられず、先に昼食を済ませることにする。コンビニエンスストアで買った弁当を食べている間も、まだ湯原が昼食休憩に入る様子はない。

 弁当を食べ終えて、雫がしばしスマートフォンを見ていると、湯原はキーボードから手を離して一つ息を吐いた。今しかないと思い、雫はスマートフォンを置いて、「湯原さん、少しいいですか?」と声をかける。

 湯原も雫に話しかけられることは、予想がついていたのだろう。「何だよ」という返事は、言葉ほどには刺々しくなかった。

「守口さんとの初回面接と心理検査、お疲れ様でした」

「ああ」と相槌を打つ湯原の表情は、心の中で「そのことか」と呟いているようにも雫には見えた。

「それで、守口さんの様子はどうでしたか? いえ、私が気にするようなことではないんですけど、どうしても気になってしまって」

 昨日と同じように訊いた雫にも、湯原はさほど表情を変えてはいなかった。淡々と事実だけを述べるように答える。

「そんなの、お前にだって想像つくだろ。昨日と同じだよ。怯えて怖がって縮こまってた。たった一日で、そんな劇的に態度は変わらないからな」

「そうですか」と相槌を打ちながら、雫はどこか腑に落ちるようだった。初めて経験する鑑別所という環境に、たった一日で順応しろという方が無理な話だろう。

 調書の写真でしか知らない守口が委縮している姿が、頭に浮かぶようだ。

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