学びが終われば
門が開き、政堂から出てくる
さて、父に拝礼し、挨拶を行う士匄の儀は完璧といってよかった。
「さすが、法制
「正卿におかれましては我が嗣子に
と、士燮が静かに返す。それは、
ところで、士匄は言いたいことは誰であろうが言うべき、という父親と真逆の男である。
「最近の父上は眉間にしわが無い。ご心配ごともないようで」
この、最後の一言はまさに舌禍。親を平気で品評する品の無さ、節度の無さ、責任の無いでしゃばり、余計なことを垂れ流す口。他者に対しては功を譲り諸事穏やかな士爕であるが、息子にはもちろん拳骨を喰らわせた。
欒黶はお大尽の息子として、ゆったりと正しい儀で父を迎えた。型どおりの言葉のあと、
「お疲れ様です!」
とあまりに軽薄な言葉を添える。欒書は士爕のように礼がなっていないと殴ることなく、深みのある笑みで頷いた。彼は、この少し軽薄ながらも悪気ない息子がかわいいらしい。バカ親というものかもしれない。
政堂前にて父を出迎えた後、士匄は欒黶を伴って馬車にて自邸へと向かった。
「父上も、あのくらいわたしに優しくしてもよいのに」
馬車に揺られながら士匄はごちた。隣で同じく馬車にゆられる欒黶がけらけらと笑う。
「いやしかし、父上
「そのくらい知っている。しかしもっと褒めろといいたい」
士匄は子供のような言葉を吐きながら唇を弾いた。士匄はアホではない、士爕が息子として己に期待していることくらいわかっている。だが、認めているかとなれば、そうではないであろう。
今日の失言も、士匄は親を
さて、そんな士匄に、親に褒められるは良い、我が父は常にお褒め下さる、と欒黶が得意げに言う。
褒め言葉は、姿勢が良いやら、弟の相手をして偉いやら、二十を超えた跡継ぎに対するものではない。
もっと悪く言えば『生きていて偉い』である。
父親である欒書は欒黶の才の無さに気づいており、はっきりいえば諦めている。ただ、息子はバカであればあるほどかわいいものである。意味なく褒め甘やかすため、欒黶の無邪気な傲慢は天井知らずであった。
宮殿からの大通りを馬車はゆく。士氏の邸は遠くない。大貴族が住む一角にある。ご、と強い風が吹いて黄砂が宙を舞い、士匄たちの衣を汚していく。春の強い風により黄砂が吹き荒れる季節である。桃園で優雅に花を愛でていても風が視界を黄色くしていくことなどしばしばであったが、この日もそれなりに酷い。
そのような黄砂で汚れても、慌てふためいて体をはたくのは卑しい身のもの。大夫の令息である二人は、ゆったりとさりげなく砂を払いながら、雑談を楽しむ。それこそが選ばれた貴人であるといわんばかりであり、そのような余裕と意地がなければ、蔑まれるのが当時の貴族であった。
ふと、士匄の肩に重い感覚がのしかかり、空気が澱んだ。欒黶といえば、楽しそうに己の祖を自慢している。と、いうことは、何でもはじき飛ばす欒黶をくぐり抜けるような霊が来た、ということであった。士匄は根性のある
ぴきん、と何かがひび割れるような音が鳴った。士匄の空耳というわけではないようで、欒黶も首をかしげる。
「何の音だ。氷が割れるような?」
欒黶の言う氷は、氷河が軋む音である。黄河は冬の間、水面に氷が張ることも少なくない。雪解けの時、その氷と共に雪と水が一気に流れ、洪水を起こすことさえある。
「もう春も半ばというのに、氷などなかろう。あれは木のひび割れる音だ。ほら、職人が失敗したのか、時々拵えた木の細工が割れるときが――」
そこまで言って、士匄は息を飲んだ。この場で、ひび割れる音が聞こえるような木造のものなど、ひとつしかないではないか。士匄は欒黶の襟首をひっつかみ抱きかかえると、そのまま馬車から身を投げた。
「な、なんだあ、
意味わからず、欒黶が叫ぶ。と同時に、まるで断末魔のような音を立てて馬車の車軸が折れ、その勢いで両の車輪が無秩序な方向へ走りゆく。バランスを崩した車輪の動きに馬たちはいななき暴れぶつかり合い、勢いよく倒れた。御者はその勢いで放り出され馬の下敷きとなり潰される。もう一頭の馬は馬車のど真ん中に向かって倒れた。大惨事である。思いきり背中を打った欒黶も、腕や膝を打った士匄も、茫然とそのさまを見た。
「士氏は馬車の材をけちっているのか?」
欒黶が極めてまぬけなことを言った。士匄にとりついた霊か何かの仕業、とは思わなかったらしい。元々、霊障に合うことも無ければ、強運すぎて不祥が避ける青年である。呪い祟り障りとは思わないのであろう。
「我が家がそのようなことをするわけがなかろう。あれだ、御者の運が悪かったのだ」
士匄は強く言い切った。むろん、重くのしかかる霊障不祥、身にまとわりつく不吉な空気が原因であることはわかっている。が、そんなことを言えば、この友人は
「大夫の嗣子が徒歩とは、父が知れば嘆き悲しむかもしれんが、まあ俺は歩くのも好きだ。士氏の射場は中々にいい、我が
欒黶が今度こそは体の汚れを払いながら笑った。
友だちがバカだと何も考えないから楽でいいなあ、と士匄は深く頷きながら立ち上がった。
「毎度言うが、お前が勝ったこと無いだろう」
指で肩をこづいて言うと、だから負かすのだ、と欒黶が少し拗ねた顔をした。そうして二人、歩き出したが、士匄の身から不吉不祥は離れることなくまとわりついていた。
春秋時代、
弓の鍛錬は馬車に乗ってすることも多いが、士匄と欒黶は遊戯感覚である。射場に立った二人は、矢をつがえ的に当てていった。
欒黶は性格上集中力が弱い。引き絞った弦から矢を放つとき、気が抜け姿勢が歪む。結果、的の端に刺さったり、中には外れることも多い。
「あの的はなんだ、動いているのではないか」
バカバカしい八つ当たりをしながら持っていた矢を一本、腹立ち紛れに地に叩きつけた。それを鼻で笑いながら、士匄も矢を放った。
士匄は集中力を瞬間的に高めるのが得意である。
と、いうよりは。
この一族は集中力が異様に高い。父はその上で注意深く、祖父に至っては化け物じみた集中力と観察力があったらしい。こうなれば肉食獣に近い本能なのやもしれぬ。
その獣じみた集中力で、的の中央へ吸いこまれるように矢が刺さった。
終われば得意満面に、欒黶へ顔を向ける。己の力を誇示せずにはいられないのは、士匄の悪い癖であった。
その額には脂汗が浮いている。
雑多な霊は欒黶に当てられ寄ってこないが、馬車を破壊したらしいこの不祥は士匄にのっかり絡みついたままなのである。それを意地とプライドと集中力でなんでもないように振る舞っているというわけであった。ここまでくれば、いつか意地で死ぬのではないかと思うほどである。
「そうだ賭け弓をせぬか。そうだな……。勝てばわたしの馬をやる。おまえが負ければ自慢の奴隷ひとつ」
「馬とは大きく出たな。乗った」
馬は貴重な消費動物であり戦場の機動力そのものである。それをやるというのであるから、士匄の自信のほどが見えるであろう。奴隷も『自慢』となればなかなかの財産だった。欒黶が今気に入っている自慢の奴隷は歌舞音曲に優れ、夜も良い女である。士匄は漁色家というほどではないが、歌舞音曲のたぐいは好きなほうであった。
そうやって互いに顔をつきあわせ話している間、先ほど士匄が放った矢がほろりと的から抜けた。深く突き刺さったそれは、自然に外れることなど無い。むろん、二人は気づかない。
その、動かぬはずの矢が向きを変え、
か、と強い力で地に刺さる。
士匄は顔を引きつらせ、欒黶も同じように顔を引きつらせながら鼻を触る。ほんの少しかすったようで、小さな傷ができていた。
「俺の……俺の見目良い顔に傷ができたではないか! なんだこれは! 汝だろう、
欒黶が顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
「わたしがしたわけではないわ! お前を狙うなら堂々と目の前で弓をかまえている!」
士匄も負けじと怒鳴り返した。その剣幕に怖じることなく、頭に血が上った欒黶が士匄につかみかかって殴ろうとした。が、士匄はその腕をとり、逆になぎ倒す。背を地に叩きつけられながら、欒黶が、があ、と吼えた。
「汝は今日、俺を不祥避けにしたろう! 俺は顔も心も良いスパダリだから快く受けてやったが、俺にまで災難がくるということは、そうとうな祟られぐあいではないか! 俺はしばらくお前に会わん! その
「会わぬと言うが、宮中で会うではないか。お前はアホか」
呆れて見下ろす士匄に、さぼる! と欒黶が噛みつくように宣言した。有言実行。
そういうわけで翌日。
宮中で夜明けの明りにさらされながら、士匄は呆れを隠さず口を開く。
「よくもまあ、しょうもないことでサボりやがる。弱いおつむがさらに悪化するぞ」
「范叔がよろしくないかと。元から雑多な
出仕した士匄から子細を聞いた
「お前一人か。
「韓伯は先に出られ、夜明け前にお一人で散策をされるとのことです。眼病を患っているからこそ、お一人でなされたいと。お体も丈夫でないのに立派な方です」
韓伯は韓無忌のことである。彼は弱視であり、趙武が介添えしていることが多い。しかし、
趙武が少し俯く。
生まれる前に親を亡くし、
「それでも成人し、次の
士匄は言いたいことを言っただけであるが、趙武は何やら慰められた気持ちになり微笑した。まあ、それはともかく、士匄の顔色は悪く、霊障による凶の卦が強い。近づかれただけで不幸が移りそうな様相である。
「先達に申し上げるは極めて不遜なことですが……えんがちょしてよろしいでしょうか」
しずしずとうやうやしい仕草で、趙武が両手をかかげ、双方の中指と人さし指を交差させた。そうして、えんがちょ、えんがちょ、と呟く。士匄はすばやく趙武の肩を掴み、それどころか引き寄せて肩を抱きかかえる。士匄にまとわりついた雑多な霊の一部がそろりと趙武にも移った。
「やめてくださいいいっ、
「なああにが、えんがちょだ、ガキかお前は! 若輩だったな、じゃあガキだ!」
とてもではないが、どちらも将来国を背負う青年のやることではない。二人は未就学児以下のようなやりとりで廊下で暴れ回った。
「びゃっ」
参内してきた同じ
「あっ。あっスミマセン! あ、いや、その、そうですね、趙孟は范叔に教えを請うご関係、やっぱり! いや、あの朝です、が! あー、スミマセン、お邪魔しましたあ!」
口早に叫び、走り去る荀偃を二人は慌てて捕まえようと駆け出し、
「違う!」
「違います!」
と揃って唱和した。
「いえいえ、こんな朝から!」
パニックを起こしている荀偃は聞こえていないらしい。士匄は無理やり素っ首捕まえる。それでも走ろうとする荀偃に合わせて共に走る。趙武もつられて走る。趙武どころか荀偃にまで雑多な鬼の一部が移りゆく。
三人はもつれるように学びの間へ入り、倒れ込んだ。
「……宮中では常に落ち着くのが肝要。廊下を走るな」
公族大夫の年長、学級委員長な韓無忌が表情ひとつ変えず 静かに言った。小学生への注意と変わらない。
穢れをまとったまま、三人は拝礼した。傲岸な士匄でさえ黙って首肯せねばならぬほどの、醜態であった。
結局、韓無忌が宮中にいる
「士氏の嗣子とあろうものが、毎度
とやんわりと説教をして去っていった。士匄は苦い顔を隠さず、おとなしく拝聴した。