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第94話「重荷」

 ◆


 片倉は立ち尽くしたまま城戸の亡骸を見つめている。


 首から上を失った体がだらりと横たわり、切断面から流れ出た血が黒い池を作っていた。


 液体金属の刃・カムドは見事な切れ味だ。


 一瞬で自らの首を刎ねた城戸の最期は、少なくとも苦痛はなかっただろう。


 ──それがせめてもの救いか


 片倉はそんなことを思う。


 だが次の瞬間。


「うっ……」


 激しい吐き気が込み上げてきた。


 胃の奥から熱いものがせり上がり、片倉は堪えきれずに床に手をついた。


 酸っぱい胃液が喉を焼く。


 何も食べていない胃が痙攣を起こし、黄色い液体だけが口から溢れ出す。


 嘔吐しながら片倉は拳で床を殴りつける。


 ゴン、と鈍い音。


 拳の皮が裂け、血が滲んだ。


 またダンジョンが仲間を奪った。


 いや──今回は違う。


 ──城戸さんは自殺した。でもそんなの知ったことか


 城戸は企業の命令で薫子を刺した。


 そして自ら命を絶った。


 結局は同じだ。


 ダンジョンという空間が人を狂わせ、歪ませた結果である。


 この異質な空間が人の心を蝕み、正常な判断を奪っていく。


 憎悪が波のように押し寄せる。


 ダンジョンへの。


 この理不尽な世界への。


 そして──


 自分自身への憎悪が。


 ──なぜ俺はいつも生き残ってしまうのか


 今度は城戸が死んだ。


 自分だけが生き延びる。


 まるで呪われているかのように。


 片倉は震える手で口元を拭った。


 胃液の酸味と血の鉄臭さが混じり合い、吐き気を増幅させる。


「片倉……さん……」


 か細い声が響いた。


 薫子がゆっくりと立ち上がる。


 腹部の傷口を押さえながら、よろよろと歩み寄ってきた。


 顔面蒼白。


 額には脂汗が浮かんでいる。


 それでも薫子の足取りはしっかりしていた。


 ──麻痺毒か


 城戸の最期の言葉を思い出す。


 致死性の毒ではなく、一時的に動きを封じるだけの毒だったらしい。


 探索者の頑健な肉体ならば、この程度の刺し傷では死なない。


 薫子は痛みに顔を歪めながらも、城戸の亡骸を見つめる。


 切断された首。


 血の海に沈む体。


 凄惨な光景だったが、薫子の瞳に恐怖の色はなかった。


「この人も限界だったんですね」


 静かな声。


 そこには非難も怒りもない。


 深い同情が薫子の瞳に宿っていた。


 企業の犬として生きることに疲れ果てた男。


 大切な人を失い、生きる意味を見失った男。


 そんな城戸の苦悩を、薫子は理解していた。


 ──同じ探索者として


 誰もが紙一重なのだ。


 今日生きている者も、明日には城戸のようになるかもしれない。


 ダンジョンは人を壊す。


 肉体だけでなく、精神も魂も。


 片倉は黙って立ち上がった。


 足元がふらつく。


 嘔吐の影響で体に力が入らない。


 それでも片倉は城戸の体に歩み寄り、腰のナイフを抜いた。


 刃が鈍く光る。


 一瞬の躊躇。


 だがすぐに振り下ろした。


 ザクリ、と肉を断つ音。


 城戸の左腕が胴体から切り離される。


 液体金属の義肢・カムド。


 岩戸重工の技術の結晶。


 これが城戸の遺品だ。


 切断面から血が流れるが、もう勢いはない。


 死体からは既に生命が失われている。


 片倉は左腕を拾い上げた。


 ずしりと重い。


 金属の冷たさが掌に伝わってくる。


 ──桜花征機の技術力なら、それなりに役立てるんじゃねえかな


 城戸の最期の言葉が脳裏に響く。


 片倉への餞別のつもりだったのだろうか。


「行きましょう」


 薫子の言葉に片倉は頷いた。


 もうここには用はない。


 城戸の亡骸を最後に一瞥する。


 首を失った体が静かに横たわっている。


 探索者の末路そのものであった。


 片倉は踵を返した。


 薫子も痛みを堪えながら、片倉の後に続く。


 二人の足音が堂内に響く。


 背後には死の静寂だけが残された。


 ◆


 堂を出ると既に日は傾いていた。


 西の空が茜色に染まり、山の稜線が黒いシルエットとなって浮かび上がる。


 風が冷たい。


 汗で濡れた体に容赦なく吹き付け、体温を奪っていく。


 薫子が小さく身震いした。


 失血の影響だろう。


 顔色は相変わらず悪い。


「大丈夫ですか」


 片倉が声をかけると、薫子は力なく微笑んだ。


「なんとか……歩けます」


 強がりだということは明白だった。


 腹部の傷は深い。


 応急処置はしたものの、本格的な治療が必要だ。


 二人は黙々と山道を下る。


 足元の石が転がり、乾いた音を立てる。


 時折薫子がよろめくが、片倉の手を借りることはなかった。


 プライドか。


 あるいは片倉に迷惑をかけたくないという思いか。


 どちらにせよ、薫子は自力で歩き続けた。


 やがてベースキャンプの明かりが見えてきた。


 テントから漏れる光が、薄暗い山肌にぼんやりと浮かび上がる。


 人の営みの証。


 だがそれすらも、片倉には遠い世界のもののように感じられた。


 ベースキャンプでは山田たちが待っていた。


 包帯を巻いた山田が、心配そうな表情で二人を出迎える。


「おい、大丈夫か。押野さんも怪我を……」


 山田の言葉が途切れる。


 片倉の手にある血塗れの腕。


 そして二人だけで帰ってきたという事実。


 全てを察したのだろう。


「城戸さんは死にました」


 片倉の声は無機質だった。


 感情を押し殺した、ただ事実を伝えるだけの声。


「これは遺品です。俺が持ち帰る」


 若手が何か言いかけた。


 城戸の死の経緯を問おうとしたのだろう。


 だが山田が鋭い視線で制する。


 今は何も聞くべきではないと思ったからだ。


 「とりあえず──俺は少し疲れたので医療ベースで休ませてもらいます」


 片倉はそう言ってその場を立ち去ろうとする。


 その背中に声がかかった。


「片倉さん」


 薫子だった。


 片倉が足を止め、ゆっくりと振り返る。


 薫子は深々と頭を下げた。


「ありがとうございました」


 礼の言葉。


 だが何に対する礼なのか。


 城戸を止めてくれたことか。


 自分を守ってくれたことか。


 あるいは──


 片倉は何も答えない。


 ただ小さく頷いた。


 言葉は不要だった。


 探索者同士、通じ合うものがある。


 片倉は再び歩き出す。


 夕闇が深まり始めていた。


 空に一番星が瞬き始める。


 片倉の姿が遠ざかっていく。


 その背中はまた一つ重荷を背負ったように見えた。




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