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片倉は立ち尽くしたまま城戸の亡骸を見つめている。
首から上を失った体がだらりと横たわり、切断面から流れ出た血が黒い池を作っていた。
液体金属の刃・カムドは見事な切れ味だ。
一瞬で自らの首を刎ねた城戸の最期は、少なくとも苦痛はなかっただろう。
──それがせめてもの救いか
片倉はそんなことを思う。
だが次の瞬間。
「うっ……」
激しい吐き気が込み上げてきた。
胃の奥から熱いものがせり上がり、片倉は堪えきれずに床に手をついた。
酸っぱい胃液が喉を焼く。
何も食べていない胃が痙攣を起こし、黄色い液体だけが口から溢れ出す。
嘔吐しながら片倉は拳で床を殴りつける。
ゴン、と鈍い音。
拳の皮が裂け、血が滲んだ。
またダンジョンが仲間を奪った。
いや──今回は違う。
──城戸さんは自殺した。でもそんなの知ったことか
城戸は企業の命令で薫子を刺した。
そして自ら命を絶った。
結局は同じだ。
ダンジョンという空間が人を狂わせ、歪ませた結果である。
この異質な空間が人の心を蝕み、正常な判断を奪っていく。
憎悪が波のように押し寄せる。
ダンジョンへの。
この理不尽な世界への。
そして──
自分自身への憎悪が。
──なぜ俺はいつも生き残ってしまうのか
今度は城戸が死んだ。
自分だけが生き延びる。
まるで呪われているかのように。
片倉は震える手で口元を拭った。
胃液の酸味と血の鉄臭さが混じり合い、吐き気を増幅させる。
「片倉……さん……」
か細い声が響いた。
薫子がゆっくりと立ち上がる。
腹部の傷口を押さえながら、よろよろと歩み寄ってきた。
顔面蒼白。
額には脂汗が浮かんでいる。
それでも薫子の足取りはしっかりしていた。
──麻痺毒か
城戸の最期の言葉を思い出す。
致死性の毒ではなく、一時的に動きを封じるだけの毒だったらしい。
探索者の頑健な肉体ならば、この程度の刺し傷では死なない。
薫子は痛みに顔を歪めながらも、城戸の亡骸を見つめる。
切断された首。
血の海に沈む体。
凄惨な光景だったが、薫子の瞳に恐怖の色はなかった。
「この人も限界だったんですね」
静かな声。
そこには非難も怒りもない。
深い同情が薫子の瞳に宿っていた。
企業の犬として生きることに疲れ果てた男。
大切な人を失い、生きる意味を見失った男。
そんな城戸の苦悩を、薫子は理解していた。
──同じ探索者として
誰もが紙一重なのだ。
今日生きている者も、明日には城戸のようになるかもしれない。
ダンジョンは人を壊す。
肉体だけでなく、精神も魂も。
片倉は黙って立ち上がった。
足元がふらつく。
嘔吐の影響で体に力が入らない。
それでも片倉は城戸の体に歩み寄り、腰のナイフを抜いた。
刃が鈍く光る。
一瞬の躊躇。
だがすぐに振り下ろした。
ザクリ、と肉を断つ音。
城戸の左腕が胴体から切り離される。
液体金属の義肢・カムド。
岩戸重工の技術の結晶。
これが城戸の遺品だ。
切断面から血が流れるが、もう勢いはない。
死体からは既に生命が失われている。
片倉は左腕を拾い上げた。
ずしりと重い。
金属の冷たさが掌に伝わってくる。
──桜花征機の技術力なら、それなりに役立てるんじゃねえかな
城戸の最期の言葉が脳裏に響く。
片倉への餞別のつもりだったのだろうか。
「行きましょう」
薫子の言葉に片倉は頷いた。
もうここには用はない。
城戸の亡骸を最後に一瞥する。
首を失った体が静かに横たわっている。
探索者の末路そのものであった。
片倉は踵を返した。
薫子も痛みを堪えながら、片倉の後に続く。
二人の足音が堂内に響く。
背後には死の静寂だけが残された。
◆
堂を出ると既に日は傾いていた。
西の空が茜色に染まり、山の稜線が黒いシルエットとなって浮かび上がる。
風が冷たい。
汗で濡れた体に容赦なく吹き付け、体温を奪っていく。
薫子が小さく身震いした。
失血の影響だろう。
顔色は相変わらず悪い。
「大丈夫ですか」
片倉が声をかけると、薫子は力なく微笑んだ。
「なんとか……歩けます」
強がりだということは明白だった。
腹部の傷は深い。
応急処置はしたものの、本格的な治療が必要だ。
二人は黙々と山道を下る。
足元の石が転がり、乾いた音を立てる。
時折薫子がよろめくが、片倉の手を借りることはなかった。
プライドか。
あるいは片倉に迷惑をかけたくないという思いか。
どちらにせよ、薫子は自力で歩き続けた。
やがてベースキャンプの明かりが見えてきた。
テントから漏れる光が、薄暗い山肌にぼんやりと浮かび上がる。
人の営みの証。
だがそれすらも、片倉には遠い世界のもののように感じられた。
ベースキャンプでは山田たちが待っていた。
包帯を巻いた山田が、心配そうな表情で二人を出迎える。
「おい、大丈夫か。押野さんも怪我を……」
山田の言葉が途切れる。
片倉の手にある血塗れの腕。
そして二人だけで帰ってきたという事実。
全てを察したのだろう。
「城戸さんは死にました」
片倉の声は無機質だった。
感情を押し殺した、ただ事実を伝えるだけの声。
「これは遺品です。俺が持ち帰る」
若手が何か言いかけた。
城戸の死の経緯を問おうとしたのだろう。
だが山田が鋭い視線で制する。
今は何も聞くべきではないと思ったからだ。
「とりあえず──俺は少し疲れたので医療ベースで休ませてもらいます」
片倉はそう言ってその場を立ち去ろうとする。
その背中に声がかかった。
「片倉さん」
薫子だった。
片倉が足を止め、ゆっくりと振り返る。
薫子は深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
礼の言葉。
だが何に対する礼なのか。
城戸を止めてくれたことか。
自分を守ってくれたことか。
あるいは──
片倉は何も答えない。
ただ小さく頷いた。
言葉は不要だった。
探索者同士、通じ合うものがある。
片倉は再び歩き出す。
夕闇が深まり始めていた。
空に一番星が瞬き始める。
片倉の姿が遠ざかっていく。
その背中はまた一つ重荷を背負ったように見えた。