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第95話「落とし前」

 ◆


 ベースキャンプの医療テントは消毒液の匂いで満ちていた。


 薫子は簡易ベッドに横たわりながら、医療スタッフの手当てを受けている。腹部の傷は思ったより浅く、ナノ毒ではなく麻痺毒だったことが幸いした。それでも出血量は多く、当分は安静が必要だ。


「片倉さんは?」


 薫子が看護師に尋ねる。


「さっき出て行かれました。止めましたが……」


 看護師の表情が曇る。あの様子では何をするか分からない、という不安が滲んでいた。


 薫子は上体を起こそうとして、鋭い痛みに顔をしかめる。


「無理をしないでください」


「でも……」


 このままでは片倉が何か取り返しのつかないことをしてしまうかもしれない。薫子にはそんな予感があった。


 城戸の死を目の当たりにした時の片倉の顔を、薫子は忘れられない。怒り、悲しみ、絶望──今まで感情を押し殺し、ただ機械的に探索を続けていた男が、初めて人間らしい激情を露わにしたのだ。


 端末が震える。桜花征機からの連絡だ。


 薫子は周囲に人がいないことを確認してから通話を始めた。


「押野です」


『状況はどうだ?』


 上司である黒川の声が響く。


「龍華寺の探索は一時中断です。死傷者多数、私も負傷しました」


『そうか──それはあとで詳しく聞こう。問題は岩戸の連中の動きだ』


 薫子は一瞬黙り、告げる。


「エージェントの城戸が死にました。岩戸重工の命令で、私を殺そうとして」


 電話の向こうで息を呑む音がした。


『……証拠は?』


「城戸本人の証言です。死ぬ直前に、岩戸の命令だったと」


『録音は?』


「ボディアーマーに仕込んだ録音装置に記録されています」


 黒川が舌打ちする音が聞こえた。桜花征機と岩戸重工は長年のライバル関係にある。探索者向けの装備開発で常に競い合い、時には諜報活動も辞さない。しかし、直接的な暴力行為は業界の不文律として避けられてきた。今回、その一線が越えられたのだ。


『面倒なことになったな。上に報告する必要がある』


「待ってください」


 薫子は慎重に言葉を選ぶ。


「城戸を操っていた人物を特定したいんです」


『何だと?』


「岩戸重工の誰が、具体的に城戸に命令を下していたのか。それが分かれば……」


 薫子は言葉を切る。黒川も薫子の意図を察したらしい。


『報復か?』


「情報収集です」


 建前だということは両者とも分かっている。


『君の個人的な感情で動くつもりか?』


「いいえ。これは桜花征機にとってもチャンスです」


『ほう?』


「城戸が持っていた義肢を見ました。液体金属を使った新技術、カムドと呼ばれていました」


 黒川の呼吸が変わった。技術者でもある彼にとって、その名前は特別な意味を持つ。


『IWT-TS-023……精神感応流体金属兵器か。まさか実用化していたとは』


「もし岩戸の研究施設に潜入できれば、その技術データを入手できるかもしれません」


 薫子は慎重に言葉を選ぶ。この提案が通るかどうかで、全てが決まる。


『君は何を企んでいる?』


「取引です」


 薫子ははっきりと言った。


「私が岩戸の研究データを入手する。その代わり桜花征機は私の行動を支援し、事後の情報隠蔽に協力する」


『つまり?』


「城戸に命令を下した人物を特定し、制裁を加えます。しかしそれは表向き、第三勢力の仕業ということにする」


 電話の向こうで黒川が考え込んでいるのが分かった。


『リスクが高すぎる』


「リターンも大きいはずです。カムドの技術だけではありません。岩戸がどんな人体実験を行っているか、どんな違法研究を進めているか。それらの情報は、桜花征機にとって大きな武器になります」


『……上層部の判断が必要だな』


 黒川の声には迷いがあった。しかし同時に興味も感じられる。


『なぜそこまでする? 君にとって城戸はただの一時的な仲間だったはずだ』


 薫子は窓の外を見た。夜の山々が黒いシルエットとなって連なっている。


「片倉さんのためです」


 正直に答えた。隠しても意味がない。


『片倉──ああ、例の単独探索者か。そういうことか』


 黒川の声に納得の色が混じる。


『まあ、君の個人的な感情は理解した。問題は実現可能性だ』


「私のエージェントネットワークを使えば、岩戸内部の情報を集められます」


 薫子は自信を持って言った。桜花征機の企業探索者として活動する傍ら、薫子は独自の情報網を構築してきた。他企業の探索者、フリーランスの情報屋、時には岩戸の下級社員まで。金と脅しと時には色仕掛けも使って、幅広い人脈を作り上げてきたのだ。


『分かった。明日の朝一番で上層部と協議する。君も東京に戻って待機しろ』


「はい」


『それと、片倉には手を出させるな。感情的になっている時は判断を誤る』


「承知しています」


 通話が切れた。


 薫子は深く息を吐く。第一段階はクリアした。しかし、傷の痛みと疲労が限界に来ていた。今は休むべきだ。


 翌朝、薫子は痛み止めを大量に服用してから医療テントを出た。まだ歩くのも辛いが、片倉を放っておくわけにはいかない。


 ベースキャンプの端で、片倉は城戸の遺品を整理していた。


「片倉さん」


 声をかけると、片倉はゆっくりと振り返った。その目は充血し、一晩中眠っていないことが分かる。


「押野さん……まだ動いちゃ駄目でしょう」


「大丈夫です。それより、東京に戻りましょう」


 片倉は首を振る。


「俺はもう少しここに」


「駄目です」


 薫子は片倉の隣に腰を下ろす。痛みで額に汗が滲むが、気づかれないようにする。


「桜花征機が協力してくれるかもしれません。でも、そのためには東京で準備が必要です」


 片倉の目に光が宿る。


「本当ですか?」


「私の上司が上層部と協議してくれています。城戸さんを操っていた人物も、おそらく特定できます」


 薫子は端末を取り出し、既に集まり始めている情報を見せた。


「渡辺啓介という男を知っていますか?」


「いいえ」


「岩戸重工の専務です。汚れ仕事を一手に引き受けている人物」


 画面に表示された写真を片倉に見せる。50代の男性。一見すると普通のサラリーマンだが、目に宿る冷たさが印象的だ。


「この男が、城戸さんに命令を下した可能性が高い」


 片倉は写真を睨みつける。


「証拠は?」


「まだ状況証拠だけです。でも、東京に戻れば本格的な調査ができます」


 片倉は少し考えてから、小さく頷いた。


「分かりました」


「片倉さん」


 薫子は片倉の目を真っ直ぐ見た。


「必ず仇は討ちます。でも、今は我慢してください。準備なしに動けば、城戸さんと同じ結果になります」


 片倉は拳を握りしめ、そして力を抜いた。


「……信じます」


 二人は立ち上がる。薫子は痛みを堪えながら、何とか普通に歩いているように見せかけた。


 その日の午後、ベースキャンプの中央広場に探索者たちが集められた。


 山田は頭に包帯を巻いたまま、仮設の台に上がった。薬師如来との戦闘で受けた傷はまだ癒えていないが、リーダーとしての責務を果たすために無理をして出てきたのだ。


「みんな、聞いてくれ」


 山田の声は掠れていたが、それでも全員に届くよう力を込める。


 集まった探索者たちの顔には、疲労と恐怖の色が濃い。生き残った者たちも、多くが負傷していた。


「今回の龍華寺探索で、我々は三名の仲間を失った」


 山田は一人一人の名前を呼ぶ。


「佐々木、ムトウ、そして城戸。彼らの犠牲を無駄にしないためにも、俺は決断した」


 探索者たちが息を呑む。


「龍華寺の探索を一時凍結する」


 誰からも異論は出なかった。むしろ、安堵の空気が流れる。


「正直に言おう。このダンジョンは、現在の我々の力では攻略不可能だ」


 山田は苦渋の表情を浮かべる。


「薬師如来の異常な戦闘能力、それに加えて想定外の罠の数々……我々の準備は全く不十分だった。ここは悪辣すぎる」


 何人かが頷く。


 実際、誰もがその恐ろしさを身をもって体験していた。


「もっと大規模な準備が必要だ。装備の見直し、人員の増強、そして何より情報収集。それらが整うまで、龍華寺には誰も立ち入らないこと」


 山田は全員を見渡す。


「明日の朝、撤収を開始する。各自、今日中に撤収準備を済ませてくれ」


 そして最後に付け加えた。


「生き残れたことを、恥じる必要はない。次こそ必ず、龍華寺を攻略する。それまで力を蓄えよう」


 解散の合図と共に、探索者たちは三々五々散っていく。


 片倉と薫子も人混みに紛れて立ち去った。


 二人にとって、この決定は渡りに船だった。


 これで堂々と東京へ戻り、渡辺への復讐計画を進められる。


 翌朝、福井駅のホームで片倉と薫子は同じ車両に乗り込んだ。


 向かい合わせの席に座る。


 窓の外を流れる景色を見つめながら、片倉は城戸の最期を思い返していた。


 あの時、城戸は確かに「すまない」と言った。


 ──城戸さんも本意じゃなかったっていう事だ


 片倉は拳を握りしめる。


 城戸の仇は必ず討つ。


 それがせめてもの手向けだと片倉は思った。


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