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東京駅。人の流れが絶えない中央コンコース。
「明日の会談、上手くいくといいですね」
片倉の言葉に薫子は頷いた。
「必ず道筋をつけます」
断言はしない。企業の論理は水物だ。風向きは一瞬で変わる。
片倉と別れた後、薫子は山手線のホームへ向かった。
電車の轟音が思考を遮る。
それでも頭の中では明日のプレゼンテーションが組み上がっていく。
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桜花征機本社ビル四十三階。
特別会議室は外光を遮断し、人工照明だけが卓上を照らしている。
向かい側に座るのは三人の重役。
専務取締役・佐伯。技術畑の男は新しい玩具を前にした子供のような目をしていた。
営業担当常務・今井。市場を数字で切り取る冷徹な頭脳。
法務担当常務・織田。リスクを嗅ぎ分ける番犬。
「押野君」
佐伯が切り出す。
「岩戸重工の技術を入手できると?」
薫子は資料を配布した。
カムドの写真。推定スペック。市場価値の試算。
「液体金属を使用した形状記憶合金。我が社より三年は先行しています」
「現物はあるのか?」
佐伯の問いに薫子は頷く。
「入手済みです。しかし」
薫子は金属製のケースを卓上に置いた。
中には城戸から奪ったカムドの腕が収められている。
「これだけでは意味がありません」
今井が眉をひそめる。
「現物があるなら分析すればいいのでは?」
「すでに我が社の研究部門で解析を試みました」
薫子は新たな資料を示す。
技術レポート。その結論は『解析不能』。
「表層的な組成は判明しています。しかし肝心な部分が分からない」
佐伯が身を乗り出した。
「具体的には?」
「まず、我が社の失敗例をご覧ください」
薫子は分厚いファイルを開く。
『プロジェクト・リキッドアーム』
桜花征機が三年前から進めていた極秘開発計画。
「試作品第一号、コードネーム『水銀』」
映像が流れる。
銀色の液体金属が人間の腕の形を取ろうとしている。
しかし次の瞬間、制御を失った金属が暴走。
実験室の壁に激突し、飛び散った。
「相転移の制御に失敗。液体状態から固体への移行が不安定でした」
佐伯が苦い顔をする。
この失敗で研究員二名が重傷を負ったことを覚えている。
「試作品第七号『銀河』」
新たな映像。
今度は形状の維持には成功している。
しかし電気信号を送った瞬間、金属が異常発熱。
摂氏八百度まで上昇し、実験装置を溶かした。
「エネルギー効率の問題です。岩戸のカムドは常温で動作しますが、我々の試作品は」
薫子はグラフを示す。
消費電力はカムドの五十倍。
発熱量は百倍以上。
「試作品第十五号『流星』」
最新の失敗例が表示される。
一見すると成功に見えた。
液体から固体へ、スムーズに変形する腕。
「おお、これは」
今井が期待を込めて見つめる。
しかし次の瞬間、金属の結晶構造が崩壊。
ガラスが砕けるような音とともに、腕は粉々に砕け散った。
「金属疲労です。変形を百回繰り返すと構造が破綻します」
薫子は比較データを示す。
「岩戸のカムドは十万回の変形試験をクリアしています」
佐伯が頭を抱えた。
「なぜここまで差が」
「それは」
薫子は核心に触れる。
「液体金属の製造方法が根本的に違うからです」
新たな資料。
そこには推測される岩戸の製造プロセスが記されていた。
「通常の合金は材料を混ぜて溶かすだけ。しかしカムドは」
複雑な工程図が示される。
「ナノレベルでの構造制御。特殊な磁場下での結晶成長。そして」
薫子は間を置く。
「生体由来の触媒を使用している可能性があります」
織田が驚く。
「生体由来?」
「はい。おそらく異界の生物から抽出した酵素です」
これは薫子の推測だったが、確信に近いものがあった。
「その配合比率、投入タイミング、温度管理。全てがブラックボックスです」
薫子は失敗の記録を続ける。
開発費用:七十三億円。
研究期間:三年。
成果:ゼロ。
「我が社だけではありません」
薫子は業界の情報を示す。
「精神感応により形状を変化させる武装は諸外国でも研究されています。例えばシュバルツ。そして華龍。いずれも巨額の資金を投入していましたが、結局開発には至っておりません」
シュバルツ・インダストリィはドイツの、華龍科技は中国の企業である。
カムドの開発がいかに困難か。
その現実が重役たちに突きつけられる。
「だからこそデータが必要です」
薫子は岩戸のデータベースの構造を示す。
「失敗例も含めた十年分の研究記録。温度は何度で、圧力は何パスカルで、触媒は何グラム」
膨大なパラメーター。
その組み合わせは天文学的な数字になる。
「特に重要なのは制御アルゴリズムです」
薫子は新たな図を示す。
「液体金属に送る電気信号のパターン。これが少しでもずれると」
また失敗例の映像。
暴走する金属。爆発する実験装置。砕け散る試作品。
「岩戸は一万種類以上の信号パターンを保有しています。状況に応じて使い分ける」
今井が溜息をつく。
「気の遠くなる話だ」
「ですが」
薫子は希望を示す。
「データさえあれば、我々も一年以内に実用化できます」
佐伯の目が輝いた。
「本当か?」
「研究の方向性さえ分かれば、後は我が社の技術力で対応できます」
薫子は断言する。
「闇雲に実験を繰り返す必要がなくなります」
織田が最後の確認をする。
「つまり、地図のない航海をしているようなものか」
「その通りです」
薫子は頷く。
「岩戸のデータは、その地図です。そして」
最後のページ。
「渡辺専務がその開発に関わっています」
会議室に重い沈黙が流れた。
七十三億円の投資。
三年の歳月。
そして何も生み出せなかった現実。
「分かった」
佐伯が決断を下す。
「失敗を繰り返すより、確実な道を選ぶ」
薫子は内心で安堵した。
しかし表情は変えない。
「では、作戦の詳細を説明します」
薫子は新たな資料を開く。
「渡辺専務の『事故死』を演出します」
空気が変わった。
企業戦争にも不文律がある。直接的な殺害はその一線を越える。
「詳細を」
佐伯の声に感情はない。
「岩戸と敵対関係にある組織は複数存在します」
薫子は業界地図を示す。
「華龍科技、ドイツのシュバルツ・インダストリー、そして」
間を置く。
「反転結社の残党」
佐伯の眼が細まった。
反転結社。二年前に壊滅したテロ組織の名はまだ生々しい。
「彼らは探索者技術の独占に反対し、企業の研究施設を襲撃していました」
薫子は過去の事件資料を示す。
「手口、使用武器、標的の選定基準。全てデータベース化されています」
「つまり、反転結社の残党による襲撃に見せかけると?」
「いえ」
薫子は首を振る。
「それでは単純すぎます」
新たなページ。
複雑な相関図が現れる。
「反転結社の元構成員が現在は華龍科技に雇われているという情報を流します」
矢印が組織から組織へと伸びる。
「同時に、シュバルツも独自に動いていたことにする」
三つ巴の構図。
誰が真犯人か分からない状況を作り出す。
「混乱の中で渡辺が死亡。データの一部が流出。しかし、どの組織が入手したかは不明」
薫子は淡々と続ける。
「我が社は、たまたま闇市場でそのデータを購入した。そういう形にします」
織田が身を乗り出した。
「しかし、三組織が同時に動くなど」
「偶然ではありません」
薫子は断言する。
「情報を操作します」
タイムラインが表示される。
D-14:華龍の通信に偽情報を混入
D-10:シュバルツのエージェントに匿名で施設情報をリーク
D-7:反転結社の隠れ家に渡辺の行動予定を「誤配」
D-3:各組織が独自に動き始める
D-day:三組織が偶然同じ日に施設を襲撃
「実際に動くのは私たちだけです」
薫子は核心を明かす。
「他の組織は自分たちが動いたと思い込む」
巧妙だった。
事後に偽の痕跡を発見させ、各組織は自らの関与を疑う。
否定すればするほど疑惑は深まる。
「実行部隊は?」
「最小限に留めます。私と協力者二名」
薫子は人数を修正していた。
「ただし、現場には多数が関与したように見せかけます」
使用する銃器は三組織のものを混在。
弾痕の角度を変えて複数の射手を演出。
足跡も異なるサイズの靴を用意。
「渡辺の死因は?」
佐伯の問いは実務的だった。
「流れ弾による事故死という形が最も自然です」
薫子は施設の見取り図を示す。
「ここで三組織が遭遇。銃撃戦が発生。逃げ遅れた渡辺が巻き込まれる」
シミュレーション映像が流れる。
混乱。怒号。銃声。
その中で倒れる一人の男。
「爆発物は使用しません」
薫子は計画を修正していた。
「かえって不自然です。データ窃取が目的なら施設は温存するはず」
今井が頷く。
「理にかなっている」
「事後の情報操作は?」
織田はまだ慎重だった。
「段階的に行います」
薫子は情報拡散のフローを示す。
「まず、業界の噂話として。次に、匿名の内部告発。最後に、海外メディアがスクープ」
真実と嘘を巧妙に混ぜる。
確認可能な事実の中に偽情報を紛れ込ませる。
「データの購入経路は?」
「東欧の情報ブローカーを経由します」
薫子は人脈を示唆する。
「過去に反転結社と取引があった人物です。彼が横流ししたという筋書き」
佐伯が深く息を吐いた。
思考を整理している。
長い沈黙。
空調の音だけが会議室に響く。
「リスク評価は?」
織田の最後の確認。
「失敗の可能性は15%」
薫子は正直に答える。
「その場合でも桜花征機への波及は防げます」
三人の重役は視線を交わした。
無言の議論が行われる。
やがて佐伯が口を開いた。
「一時間の休憩を取る」
薫子は一礼して退室した。
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社屋の屋上。
東京の空は鉛色の雲に覆われていた。
薫子は片倉にメッセージを送る。
『会議は最終段階です』
『朗報を待っています』
片倉の返信は短い。
しかしその向こうにある期待の重さが伝わってくる。
一時間後。
会議室に戻った薫子を待っていたのは三人の重役の険しい表情だった。
「結論から言う」
佐伯の声は低い。
「計画は承認する。ただし」
条件があった。
予想していたことだ。
「データ取得後、その真贋を確認して偽物だと分かった場合──君は相応の対価を支払う事になる」
「さらに」
織田が続ける。
「万が一露見した場合、君は我が社とは無関係の産業スパイとして処理される」
つまり切り捨てられる。
薫子は頷いた。
「承知しています」
佐伯が立ち上がる。
「必要な資金は指定口座に振り込む。連絡は最小限に」
「ありがとうございます」
会議は終了した。
しかし佐伯は薫子を呼び止めた。
「押野君」
二人きりになった会議室。
「君は優秀だ。しかし」
佐伯の目には複雑な感情が宿っていた。
「社の利益か、それとも個人の感情か──君はどちらで動いているのかね?」
薫子は答えない。
それが何よりの答えであった。
「結果を出せば何も言わない。だが出せなければ──」
佐伯は薫子を見つめる。
佐伯は探索者でもなんでもない、ただの一般人だ。
だのに、薫子は気圧された。
そしてそのまま薫子の内部を見通すような視線を向け──
何も言わずに佐伯は去っていった。