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第97話「潜入」

 ◆


 週が明けた。


 東京の空は相変わらず灰色の雲に覆われている。


 空気を切り裂くように走る電車の中、片倉は窓の外を流れる景色から目を離さなかった。


 無数のビルが墓標のように立ち並び人々が蟻のように蠢く。


 この街で城戸は死に薫子は傷つけられた。


 そしてその元凶である男、渡辺啓介もまたこの街のどこかで息をしているのだ。


 片倉の隣に座る薫子は端末の画面を凝視していた。


 その横顔は普段の冷静さを保ってはいるが瞳の奥には冷たい炎が揺らめいている。


「渡辺の行動パターンほぼ掴めました」


 薫子の声は低い。


 まるで獲物を追い詰める猟犬のようだ。


 画面には渡辺のスケジュールがびっしりと書き込まれていた。


 会食、会議、ゴルフコンペ。


 その合間を縫うように記された『定期視察』の四文字。


「岩戸重工が所有する極秘研究施設。場所は千葉の臨海工業地帯です。表向きはただの倉庫ですが」


 薫子は地図データを拡大する。


 複雑な配管が張り巡らされた無機質な建物群。


 その一角に赤くマーキングされた施設があった。


「カムドの開発もここで行われていた可能性が高い。渡辺はその最高責任者でした」


「視察日は?」


 片倉の問いに薫子は指で画面をタップした。


「三日後。金曜日の午後二時」


 決行の日は近い。


 片倉の胸の内で何かが燻る。


 それは怒りかそれとも復讐への渇望か。


 いやどちらも違う。


 ただ為すべきことを為すという冷徹な義務感。


 それが今の片倉を突き動かしていた。


 薫子は作戦の概要を説明し始める。


「施設への侵入ルートは二つ。正面ゲートと海側からのダクト。私たちは後者を使います」


 画面が切り替わり施設の設計図が表示される。


 無数の部屋と廊下が迷路のように入り組んでいた。


「問題は内部の警備です。岩戸重工の改造探索者が配置されているはず」


「改造探索者……」


 片倉が呟く。


 ダンジョン由来の技術や薬物を用いて非人道的な強化を施された人間兵器。


 感情を失いただ命令に従って殺戮を繰り返す。


 かつていくつかの企業がその開発に手を染めたが、あまりの非人道性から協会によって禁止されたはずだった。


「岩戸は水面下で研究を続けていたということですか」


「ええ。そしてその被験者たちはおそらく元探索者でしょう。ダンジョンで再起不能になった者や、多額の借金を背負った者たちを実験台に」


 薫子の声に微かな嫌悪が滲む。


 それはかつての小堺や今の城戸の境遇を思い起こさせたからかもしれない。


「私がハッキングで監視システムを無力化します。その間に片倉さんが先行し敵を排除する。最終目標はサーバールームのデータ確保そして」


 薫子は言葉を切った。


 その先を言うまでもない。


 渡辺啓介の抹殺。


 それがこの作戦の終着点だ。


「カムドは?」


 片倉が尋ねる。


 城戸の腕。


 桜花征機に持ち帰り解析が進められていた。


「五十嵐さんたちが徹夜で調整してくれています。あなたの生体データに同期させ、一時的に使用可能な状態に」


 薫子は端末に送られてきたレポートを表示する。


『精神感応制御の安定性:47%。連続使用可能時間:推定三分』


「完全な制御は無理ですが切り札にはなるはずです」


 片倉は頷く。


 三分。


 それで十分だった。


 城戸の遺品で城戸を操った男を討つ。


 それがせめてもの手向けとなるだろう。


 作戦の細部を詰めながら二人の間に奇妙な信頼が芽生えつつあった。


 同じ目的を持つ者同士の共犯関係。


 それは危うくそしてどこまでも強固な繋がりであった。


 ◆


 決行の日。


 空は厚い雲に覆われ時折冷たい雨がぱらついている。


 千葉の臨海工業地帯は灰色の海と無機質な工場群が広がる殺風景な場所だ。


 潮風が錆びた鉄の匂いを運んでくる。


 桜花征機の用意した偽装バンが目標施設の数百メートル手前で停車した。


 後部座席で薫子がラップトップを開く。


 画面には施設の監視カメラが捉えた映像がグリッド状に表示されていた。


「始めます」


 薫子の指がキーボードの上を舞う。


 凄まじい速度で打ち込まれるコマンド。


 画面上の文字列が滝のように流れ落ちていく。


「第一次防壁突破。監視カメラの映像をループさせます」


 一つの画面が静止し数秒前の映像を繰り返し再生し始めた。


 薫子の額に汗が滲む。


 施設のセキュリティは想像以上に強固だった。


「赤外線センサー音響センサー圧力センサー……面倒ですね」


 指の動きがさらに加速する。


 片倉は黙ってその様子を見守っていた。


 自分の出る幕はまだない。


 今は薫子を信じるだけだ。


「第二次防壁解除。ダクトの換気システムを一時的に停止させます。侵入可能時間は五分」


 片倉は頷きバンの後部ドアを開けた。


 雨がアスファルトを叩く音が聞こえる。


 施設の裏手、海に面した壁面に巨大な排気ダクトの口が開いていた。


 片倉は音を立てずにそこへ向かう。


 背後には城戸から受け継いだカムドを収めたケース。


 左腕に装着されたそれはまだ沈黙を守っている。


 ダクトの内部は暗く湿っていた。


 金属の壁を伝い片倉は施設の奥深くへと進んでいく。


 イヤホンから薫子の声が響く。


「内部に侵入。現在地B-3区画。この先に警備ドローンが三機」


 片倉は角を曲がる手前で足を止めた。


 ブゥンという低い羽音が聞こえる。


 壁に身を寄せ息を殺す。


 ドローンが角を曲がり片倉の目の前を通り過ぎていく。


 赤いセンサーライトが左右に振れ侵入者を探している。


 ドローンが通り過ぎた瞬間片倉は動いた。


 音もなく駆け抜け最後尾のドローンの背後に回り込む。


 ナイフを一閃。


 ドローンのメインローターが切断され火花を散らしながら落下した。


 残りの二機が即座に反応する。


 機銃が火を噴きダクトの壁に弾丸が突き刺さる。


 金属音がけたたましく響いた。


 片倉は壁を蹴り宙を舞う。


 空中で体を捻り二機のドローンを同時に斬り裂いた。


 残骸が床に転がる。


「ドローン部隊沈黙。上出来です」


 薫子の声は冷静だった。


 だがその奥に抑えきれない興奮が混じっているのを片倉は感じ取っていた。


 ダクトを抜け施設の内部へと足を踏み入れる。


 白い壁と蛍光灯が続く無機質な廊下。


 ここからが本番だ。


 薫子の声が再び響く。


「熱源感知。前方五十メートル右側の部屋。改造探索者です。数は……四」


 片倉はナイフを構え直す。


 改造探索者。


 人の心を持たない殺戮機械。


 相手にとって不足はない。


 扉を蹴破り部屋へ突入する。


 そこは広いトレーニングルームのようだった。


 床にはマットが敷かれ壁には様々なトレーニング器具が取り付けられている。


 そして部屋の中央に四人の男が立っていた。


 全員が同じ黒い戦闘服を身につけている。


 その目は虚ろで感情の光を宿していない。


 片倉の侵入を認識した瞬間四人の動きが完全に同期した。


 一人が正面から突進し残りの三人が左右と背後へ回り込む。


 完璧な包囲網。


 人間業ではない。


 プログラムされた動き。


 正面の男が拳を繰り出す。


 片倉はそれを半身で躱しカウンターでナイフを突き立てた。


 だが手応えが硬い。


 皮膚の下に金属プレートでも埋め込んでいるのか。


 ナイフが弾かれる。


 その隙を突き左右の男たちが襲いかかる。


 片倉は床を蹴って後方へ跳躍した。


 背後から迫っていた四人目の男の蹴りを空中で身を捻って躱す。


 着地と同時に再び距離を詰める。


 一対四。


 しかも相手は痛みを感じない改造人間。


 常識的に考えれば無謀な戦いだ。


 だが片倉の心は不思議なほど静かだった。


 死への恐怖も生への執着もない。


 ただ目の前の敵を排除するという純粋な目的だけが彼を支配していた。


「左の個体脚部に強化装甲なし。そこが弱点です」


 薫子の的確な指示が飛ぶ。


 片倉は即座に反応した。


 低い姿勢で滑り込み左の男の膝裏を斬り裂く。


 腱を断たれた男が体勢を崩す。


 片倉はその肩を踏み台にして跳躍し正面の男の首筋にナイフを叩き込んだ。


 頸動脈を切り裂かれ男は血を噴き出しながら倒れる。


 だがすぐに立ち上がろうとする。


 生命維持装置か何かで致命傷を受けても動き続けるらしい。


「頭部を破壊してください。それしかありません」


 薫子の声は冷たい。


 片倉は頷き倒れた男の頭蓋骨をナイフで貫いた。


 脳を掻き回され男は完全に沈黙した。


 残りは三人。


 だが彼らの動きに一切の動揺はない。


 仲間が殺されてもプログラム通りに攻撃を繰り返すだけ。


 それが改造探索者の恐ろしさであり哀しさでもあった。


 激しい戦闘が続く。


 ナイフと拳が交錯し火花が散る。


 金属音が鳴り響き壁に血痕が飛び散る。


 片倉の体にも無数の傷が増えていく。


 浅い切り傷、打撲。


 だが致命傷はない。


 薫子のサポートが完璧だった。


 敵の攻撃パターン、弱点、次の動き。


 それらをリアルタイムで分析し片倉に伝えてくる。


 二人はまるで一つの生き物のように連携していた。


 片倉が剣となり薫子が盾となる。


 あるいは片倉が牙となり薫子が脳となる。


 そんな共生関係がこの絶望的な状況を覆していく。


「最後の個体エネルギー供給が不安定になっています。あと三十秒で活動限界です」


 薫子の声。


 片倉は最後の力を振り絞る。


 改造探索者の動きが明らかに鈍くなっている。


 その隙を見逃さず片倉は懐に飛び込んだ。


 心臓部をナイフで貫く。


 男は痙攣を起こしやがて動かなくなった。


 部屋に静寂が戻る。


 片倉は肩で息をしながら床に転がる死体を見下ろした。


 彼らもかつては人間だった。


 夢や希望を持ち仲間と共にダンジョンに挑んだ探索者だったはずだ。


 その成れの果てがこれか。


 片倉の胸にやり場のない怒りが込み上げる。


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