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第98話「斬」

 ◆


「データ確保まで残り二分」


 薫子の声が片倉を現実に引き戻した。


 感傷に浸っている暇はない。


 片倉はトレーニングルームを後にし施設のさらに奥へと進む。


 廊下は静まり返っていた。


 まるで嵐の前の静けさのように。


 サーバールームは最下層にあった。


 厳重なセキュリティで守られた施設の心臓部。


「最終防壁です。物理的なロックと生体認証。これを破るのは……」


 薫子の声に焦りが混じる。


 ハッキングだけではどうにもならない。


「破壊します」


 片倉は簡潔に答えた。


 サーバールームの分厚い扉の前に立つ。


 そして左腕のケースを開けた。


 中には銀色に輝く液体金属の腕カムドが収められている。


 片倉はそれを自らの左腕に装着した。


 冷たい感触が皮膚に伝わる。


 ずしりと重い。


 城戸の無念。


 その重みが片倉の腕にのしかかる。


『精神感応制御、同期開始』


 機械的な音声が脳内に響く。


 片倉の意識がカムドと繋がっていく。


 腕が意思を持ったかのように微かに震えた。


「行きます」


 片倉は呟きカムドを扉に叩きつけた。


 形状記憶液体金属が使用者の意思に呼応して形を変える。


 片倉の脳裏に浮かんだのは巨大な槌のイメージ。


 カムドが瞬時に変形する。


 銀色の腕が膨れ上がり巨大なハンマーと化した。


 轟音。


 扉が大きくへこみ金属疲労の音が響く。


 二度三度と叩きつける。


 扉が軋み蝶番が悲鳴をあげる。


 そしてついに分厚い鋼鉄の扉が破壊された。


 サーバールームの内部が露わになる。


 無数のサーバーラックが整然と並び青い光を放っている。


「データをダウンロードします。三分かかります」


 薫子が遠隔操作でデータの吸い出しを開始する。


 その間片倉は周囲を警戒する。


 警報が鳴り響き施設の各所から足音が聞こえてくる。


 増援が来たのだ。


「片倉さん、あと二分……!」


 薫子の声が緊迫する。


 廊下の向こうから新たな改造探索者たちが姿を現した。


 今度は十人以上いる。


 片倉はカムドを構え直す。


 今度は鋭い剣のイメージを思い浮かべた。


 液体金属が流動し銀色の長剣へと変形する。


 城戸が振るったあの刃だ。


「来い」


 片倉は低く呟く。


 怒りでも憎しみでもない。


 ただ目の前の障害を排除するという冷徹な意志。


 改造探索者たちが一斉に襲いかかってくる。


 片倉は地を蹴った。


 銀色の剣が閃き血飛沫が舞う。


 もはやそれは戦闘ではなく一方的な殺戮だった。


 カムドの切れ味は凄まじい。


 改造探索者たちの強化された肉体も装甲も紙のように切り裂かれていく。


 腕が飛び脚が舞い首が転がる。


 血の匂いがサーバールームに充満する。


「ダウンロード、完了」


 薫子の安堵した声。


 片倉は最後の一人を斬り伏せ剣を構えたまま振り返る。


 全身血塗れ。


 だがその瞳は静かだった。


「渡辺はどこです」


「最上階専務室です。施設の構造データから逃走ルートを予測しました。おそらくヘリポートへ向かっています」


「追いましょう」


 二人の目的はまだ終わっていない。


 ◆


 施設の最上階。


 豪華な調度品が並ぶ専務室は下の階の惨状が嘘のように静まり返っていた。


 大きな窓からは灰色の海と工業地帯が見渡せる。


 その部屋の中央に一人の男が立っていた。


 渡辺啓介。


 高級そうなスーツを着こなし髪をきっちりと分けている。


 その男は片倉と薫子の姿を認めると一瞬だけ肩を揺らした。


 瞳の奥に隠しきれない動揺が走る。


 だが次の瞬間にはそれを厚い仮面の下に押し隠し歪んだ笑みを浮かべてみせた。


「……君たちが桜花征機の犬か。思ったより早い到着だったな」


 渡辺の声は努めて冷静に聞こえたがその声色には微かな震えが混じっている。


 床に転がる改造探索者たちの無残な姿を彼は見ていない。


 見る余裕がないのだ。


 ただ目の前の脅威から意識を逸らさぬよう必死に平静を装っている。


「城戸はどうした? あの役立たずは」


 その言葉に片倉の全身から殺気が奔流となって溢れ出した。


 カムドが呼応するようにぎしりと軋む音を立てる。


「死にましたよ。あんたのせいだ」


 片倉の声は低い。


 地の底から響くような重い響き。


 渡辺の喉がごくりと鳴った。


 額に滲んだ汗を彼は気づかれないように手の甲で拭う。


 内心では激しく動揺していた。


 計画では改造探索者たちがもっと時間を稼ぐはずだった。


 少なくともヘリが到着するまでの数分間は。


 だが計算は狂った。


 このままでは殺される。


 その恐怖が渡辺に最後の悪あがきをさせた。


 虚勢という名の起死回生を狙ったブラフを。


「そうか。まあいいだろう。どのみち使い捨ての駒だ」


 渡辺はわざとらしく肩をすくめ懐から小さなリモコンを取り出した。


「君たちがデータを盗んだこともここまでたどり着いたことも全て織り込み済みだ。君たちの役割は私の計画をより完璧にするためのただのスパイスに過ぎん」


「何……?」


 薫子が眉をひそめる。


 あまりにも芝居がかった物言いに逆に警戒を強めた。


 渡辺はリモコンのボタンに親指をかける。


 その指先がかすかに震えているのを片倉は見逃さなかった。


「この施設には自爆装置が仕掛けてある。私がこのボタンを押せば半径五百メートルは更地になる。君たちも君たちが盗んだデータも全て塵になるというわけだ」


 時間稼ぎ。


 片倉は瞬時に理解した。


 この男は自分たちが攻撃を躊躇する僅かな時間を作ろうとしている。


 その間にヘリが到着すれば自分だけは助かる。


 そのための必死の芝居。


「データはくれてやる。だがこれ以上近づけば諸共だ。どうする? 桜花の犬諸君」


 渡辺の額を汗が伝う。


 乾いた唇を舐めるその仕草に彼の焦りが凝縮されていた。


「君たちがここで私を殺しても意味はない。データのコピーは既に安全な場所へ転送済みだ。君たちが手にしたそれは、いわば囮。桜花征機が偽のデータに踊らされている間に、私は高みの見物とさせてもらうよ」


 次々と繰り出される嘘。


 その嘘で時間を稼ぎ自分だけが生き延びる。


 その醜い執念が渡辺を饒舌にさせていた。


「城戸さん」


 片倉が小さく呟く。


 その瞬間渡辺の背後にゆらりと人影が立った。


 半透明の城戸の姿。


 渡辺には見えていない。


 だがその冷たい気配が渡辺の背筋を撫でた。


「な、なんだ……?」


 渡辺が不審そうに背後を気にする。


 注意が逸れた。


 その一瞬の隙。


 片倉は地を蹴っていた。


 ブラフに乗る気など毛頭ない。


 カムドが閃く。


 渡辺の腕が宙を舞った。


 リモコンを持ったままの腕が床に落ちる。


「ぎゃあああああっ!」


 渡辺の絶叫が部屋に響き渡る。


 切断面から血が噴き出し高級なスーツを赤黒く染めていく。


「な、なぜだ……なぜ躊躇しない……!」


 渡辺は痛みと混乱で錯乱していた。


 片倉の背後には無数の人影が立っている。


 彼らはすでに屍だ。


 その屍を積み上げて片倉は強くなった。


 片倉は無言で渡辺に近づく。


 その目は氷のように冷たい。


「や、やめろ……来るな……!」


 渡辺が後ずさる。


 エリート然とした態度は消え失せただの怯えた小動物と化していた。


「金か? 金が欲しいのか? いくらでもやる! だから助けてくれ!」


 命乞い。


 見苦しいにも程がある。


 片倉は立ち止まった。


 そしてカムドを構え直す。


 城戸が自らの首を刎ねたあの銀色の刃。


「城戸さんに、謝れ」


 片倉の声は静かだったがその奥に底なしの怒りが渦巻いている。


 渡辺は恐怖に顔を引きつらせながら首を振る。


「い、嫌だ……あんな役立たず……」


 それが彼の最後の言葉となった。


 カムドが振り下ろされる。


 渡辺の首が音もなく宙を舞った。


 胴体から切り離された頭部が床に転がり驚愕の表情のまま止まる。


 血の海に沈む二つの死体。


 片倉は黙ってそれを見下ろしていた。


 ◆


「偽装工作終わりました」


 薫子の声が片倉を我に返らせた。


 見れば部屋のあちこちに偽の痕跡が残されている。


 華龍科技が使用する特殊な弾丸の薬莢。


 シュバルツ・インダストリーのエージェントが履くブーツの足跡。


 そして反転結社のシンボルマークが壁にスプレーで描かれていた。


 用意周到。


 完璧な偽装工作だった。


「これでこの事件は三つの組織による偶発的な衝突ということになります」


 薫子は淡々と説明する。


 その手際の良さはプロフェッショナルのそれだった。


 片倉は黙って頷く。


 ヘリコプターのローター音はいつの間にか遠ざかっていた。


 自爆装置のリモコンは渡辺の腕と共に床に転がっている。


 もう脅威はない。


「データは本物でした」


 薫子がラップトップの画面を見せる。


 カムドの設計図、実験記録そして数々の非人道的な研究の記録。


 全てが本物だった。


 渡辺の言葉はやはり最後まで嘘と虚勢に満ちていたのだ。


「帰りましょう」


 薫子の言葉に片倉は静かに頷いた。


 城戸の亡骸は、この施設と共に闇に葬られる。


 それが彼の望みだった。


 二人は燃え盛る研究施設を背に静かに立ち去った。


 空にはいつの間にか星が瞬き始めていた。


 ・

 ・

 ・


 数日後。


 テレビのニュースが千葉の臨海工業地帯で起きた爆発事故を報じていた。


『現場からは複数の組織のものと見られる銃器や弾薬が発見されており、警察は企業間の抗争に巻き込まれたテロ組織が自爆した可能性も視野に捜査を進めています』


 アナウンサーが淡々と原稿を読み上げる。


 桜花征機の情報操作は完璧に成功した。


 事件は世間の興味を失いやがて忘れ去られていくだろう。


 片倉はテレビを消した。


 部屋は静まり返っている。


 テーブルの上には城戸の腕から取り外されたカムドのコアユニットが置かれていた。


 桜花征機の技術力をもってしても完全な解析は不可能だったという。


 だが薫子は言った。


「片倉さん専用の武装として調整することは可能です」と。


 それは城戸の魂を受け継ぐということなのかもしれない。


 片倉は窓の外を見た。


 東京の夜景が宝石のようにきらめいている。


 復讐は終わった。


 だが──


 片倉は首を振る


 そうして立ち上がり、部屋を出た。



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