目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第101話「本部の一幕」

 ◆


 探索者協会本部。


 東京都心の一等地に聳え立つ鋼とガラスの巨塔。


 その最上階に位置する会議室は重苦しい空気に包まれていた。


 楕円形のテーブルを囲んで座る者たちは皆一様に険しい表情を浮かべている。


 探索者協会の幹部たち──それぞれが甲級、乙級の探索者として名を馳せた猛者たちだ。


「協会長」


 テーブルの端に座る壮年の男が口を開いた。


 鬼頭 正治。


 元甲級探索者にして現在は協会の実務を取り仕切る事務局長だ。


 左腕は義手に置き換えられている。


 かつて北陸の深層ダンジョンで失ったものだ。


「我々が今日集まったのは他でもありません。片倉 真祐についてです」


 協会長と呼ばれた人物は窓際の大きな椅子に座していた。


 逆光で顔はよく見えない。


 ただ長い黒髪が薄っすらと揺れているのが分かる。


 女だった。


「ああ、マサちゃんのことね」


 その声は不思議な響きを持っていた。


 若くもあり老いてもいる。


 優しくもあり冷たくもある。


 聞く者によって印象が変わる不思議な声音だった。


 鬼頭は眉をひそめる。


「マサちゃん……ですか」


「ええ、そう呼んでいるのよ。何か問題でも?」


 女は小さく笑った。


 その笑い声が会議室の空気を微妙に震わせる。


 幹部たちの何人かが居心地悪そうに身じろぎした。


「問題は山積みです」


 別の幹部が声を上げる。


 若い女性だった。


 篠崎 美月。


 現役の乙級探索者でありながら協会の人事部門を統括している。


「ここ三ヶ月で若手探索者の未帰還率が異常に上昇しています。その多くが片倉に憧れて単独探索を始めた者たちです」


 篠崎は手元の資料を開く。


 そこには無残な統計が並んでいた。


 未帰還者リスト。


 年齢はいずれも二十代前半。


 探索者としてのキャリアは一年未満。


 死因は推定。


 遺体すら回収できていないケースがほとんどだった。


「彼らは皆、片倉 真祐を英雄視していました」


 篠崎の声には苛立ちが滲む。


「単独で高難度ダンジョンを攻略する伝説の探索者。仲間を失っても前に進み続ける不屈の男。そんな美化されたイメージに憧れて無謀な挑戦をする」


 会議室のモニターに映像が映し出された。


 若い探索者へのインタビュー映像だ。


『俺も片倉さんみたいになりたいんです! 一人で何でもできる最強の探索者に!』


 目を輝かせて語る青年。


 その彼は一週間後、単独で挑んだダンジョンから帰ってこなかった。


「これが現実です」


 篠崎がモニターを消す。


 重い沈黙が会議室を満たした。


 椅子に座る女──協会長は相変わらず微笑みを浮かべている。


 まるで他人事のように。


「それで?」


 女が問う。


「あなたたちは何を求めているの?」


 鬼頭が前のめりになった。


「片倉を協会から除名すべきです」


 断定的な物言いだった。


「彼の存在は若手にとって毒でしかない。あの探索スタイルは──」


 鬼頭は言葉を選ぶ。


「自殺志願にしか見えません」


 ◆


 別の幹部が口を開く。


 老齢の男だった。


 藤堂 源三郎。


 協会の最古参にして元甲級探索者。


 今は引退して後進の指導に当たっている。


「片倉の探索記録を見ました」


 藤堂の声は枯れているが重みがある。


 何十年もダンジョンと向き合ってきた者だけが持つ重みだ。


「あれは探索ではない。緩慢な自殺だ」


 藤堂は資料を捲る。


 そこには片倉の直近の探索記録が記されていた。


 北海道の氷結洞窟。


 九州の火山ダンジョン。


 四国の廃坑。


 いずれも単独では攻略困難とされる高難度ダンジョンばかり。


「通常なら五人以上のチームで挑むべき場所に彼は一人で突入している」


 藤堂の指が震える。


 怒りか。


 それとも哀れみか。


「しかも準備が杜撰だ。最低限の装備と物資しか持たない。まるで死にに行っているようなものだ」


 モニターに新たな映像が映し出される。


 ダンジョン入口の監視カメラが捉えた片倉の姿。


 痩せた体。


 虚ろな目。


 死人のような表情で暗闇へと消えていく後ろ姿。


「これが英雄ですか?」


 藤堂が女に問いかける。


「これが若者たちが憧れるべき姿ですか?」


 女は答えない。


 ただ静かに微笑んでいる。


 その沈黙が幹部たちの苛立ちを増幅させた。


「協会長!」


 鬼頭が声を荒げる。


「このままでは犠牲者が増える一方です。片倉を止めなければ──」


「止める?」


 女が初めて反応を示した。


 首を傾げる仕草は無邪気な少女のようでもあり、全てを見透かした老婆のようでもある。


「どうやって?」


 単純な問いかけ。


 だが幹部たちは答えに詰まった。


 探索者協会に強制力はない。


 あくまで探索者たちの互助組織でしかない。


 除名したところで片倉が探索を止める保証はどこにもない。


 むしろ協会の庇護を失えばより危険な探索に身を投じる可能性すらある。


「だからこそ」


 篠崎が必死に食い下がる。


「協会として何らかのメッセージを発信すべきです。単独探索の危険性を訴え、片倉のような探索スタイルを推奨しないと」


「それは彼を悪者にするということ?」


 女の声は相変わらず穏やかだった。


 だがその奥に潜む何かが幹部たちを委縮させる。


「仲間を失い、それでも前に進もうとしている人間を更に追い詰めるの?」


 篠崎が唇を噛む。


 反論できない。


 片倉の過去を知らない者はいない。


 愛する者を失い、仲間を失い、それでもダンジョンに挑み続ける男。


 その姿に同情を禁じ得ない探索者は多い。


 ◆


「でもこのままでは」


 今度は別の幹部が声を上げた。


 中年の女性だ。


 医療部門の責任者である彼女は探索者たちの心身のケアを担当している。


「片倉自身も遠からず限界を迎えます。精神的にも肉体的にも」


 彼女は医療記録を示す。


 片倉が協会の医療施設を利用した際のデータだ。


 栄養失調。


 慢性的な疲労。


 無数の外傷。


 そして──


「重度の心的外傷後ストレス障害。彼は治療が必要です」


 だが女は首を振った。


「彼が治療を望んでいるの?」


 また沈黙。


 片倉は一度も助けを求めていない。


 ただ黙々と探索を続けているだけだ。


 死に場所を探すように。


 あるいは何かを探し求めるように。


「マサちゃんには目的があるのよ」


 女が唐突に言った。


 幹部たちが顔を見合わせる。


「目的?」


 鬼頭が問い返す。


「どんな目的があれば、あんな無謀な探索を続けられるというのですか」


 女はくすりと笑った。


 その笑い声には言い知れぬ深みがあった。


 人間のものとは思えない何かが潜んでいるような。


「さあ、どうかしら」


 曖昧な返答。


 だがその声音には確信が滲んでいた。


 彼女は片倉の目的を知っている。


 そう幹部たちは直感した。


 だが問い詰めることはできない。


 この女性──協会長には逆らえない何かがある。


 理屈ではない。


 本能的な畏怖。


 まるで巨大な存在の一部を相手にしているような感覚。


「とにかく」


 女が立ち上がった。


 窓から差し込む光が彼女の輪郭をぼやかす。


 顔立ちははっきりとは見えない。


 ただ長い黒髪と白いワンピースだけが印象に残る。


「マサちゃんは協会に所属させておきなさい」


 有無を言わせぬ口調だった。


「でも協会長」


 鬼頭がなおも食い下がる。


「これ以上犠牲者が出たら──」


「出るでしょうね」


 女はあっさりと認めた。


 その軽さに幹部たちは絶句する。


「人は死ぬものよ。探索者なら尚更」


 残酷なまでに単純な真理。


 だがそれを口にする女の声には、奇妙な優しさが宿っていた。


 まるで死が救いであるかのような。


 ◆


 女は扉へと歩き始める。


 その歩みは音もなく、まるで宙を滑るようだった。


「あ、そうそう」


 扉の前で女は振り返った。


 逆光で表情は見えない。


 ただ口元に浮かんだ微笑みだけがはっきりと見える。


「マサちゃんに憧れて死ぬ若者たちのことだけど」


 幹部たちが身を乗り出す。


「それは彼らの選択よ。誰かの真似をして死ぬのも、自分の道を見つけて生きるのも」


 女の声は歌うように響いた。


「全ては本人次第。マサちゃんのせいにするのは、ちょっと違うんじゃないかしら」


 篠崎が拳を握りしめる。


「でも影響を与えているのは事実です!」


「影響?」


 女は小首を傾げた。


 その仕草はどこまでも無邪気に見える。


「太陽は眩しすぎて見つめれば目が潰れるわ。でも太陽が悪いの?」


 詭弁だ。


 幹部たちは思う。


 だが反論できない。


 この女の前では全ての論理が無力化される。


「それに」


 女は扉に手をかけた。


「マサちゃんを止めたところで、また別の誰かが現れるだけよ」


 扉が開く。


 廊下から流れ込む光が女の姿を包む。


「人は皆、何かに憧れる生き物だもの」


 そして女は消えた。


 残された幹部たちは暫し呆然としていた。


 やがて鬼頭が深い溜息をつく。


「またか」


 藤堂が頷いた。


「ああ。またしても我々の意見は通らなかった」


 協会長。


 謎めいた女性。


 いつから協会を率いているのか誰も知らない。


 ただ気がつけばそこにいた。


 そして誰も逆らえない。


「片倉 真祐か」


 篠崎が呟く。


「結局我々にできることは見守ることだけなのか」


 見守る。


 それは美しい言葉だ。


 だが実際は無力な傍観者でしかない。


 若者たちが片倉に憧れて死んでいくのを。


 片倉自身が壊れていくのを。


 ただ見ているしかない。


「せめて」


 医療部門の女性が言った。


「彼が倒れた時に助けられる準備だけはしておきましょう」


 それが精一杯の抵抗だった。


 ◆


 会議室から全員が去った後。


 誰もいないはずの部屋に声が響いた。


「マサちゃん、頑張ってね」


 それは協会長──いや、MAYAの声だった。


 姿は見えない。


 ただ声だけが虚空に溶けていく。


「あと少しよ。あと少しで──」


 何が起きるのか。


 それを知る者は極少数──いや、この女だけであった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?