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第102話「甲級」

 ◆


 協会の議論をよそに、片倉はただ黙々とダンジョンを攻略し続けた。


 足跡は日本全土に及び、その悉くで前人未到の記録を打ち立てていく。


 死なない。


 倒れない。


 どんな絶望的な状況からも、彼は必ず帰ってくる。


 その圧倒的な実績はもはや個人の武勇伝という範疇を超え、一つの現象と化していた。


 そしてある日。


 探索を終え、ボロボロの体で自室に戻った片倉のもとに、協会からの電子通知が届いた。


 簡素な、事務的な文面。


『貴殿を甲級探索者へ昇格させることを決定した』


 甲級。


 探索者にとって最高位の称号。


 ほんの一握りの者しかたどり着けない栄誉。


 だが片倉の心は動かなかった。


 通知を一瞥し、そして端末を閉じる。


 その瞳に喜びの色はない。


 ただ底なしの虚無が広がっているだけだった。


 ◆


 片倉真祐──甲級へ昇格。


 同時に、甲級ダンジョンへと挑戦。


 その報せは桜花征機本社ビルの静謐な一室で、押野薫子の耳に届いた。


 彼女は手元の端末に表示された協会の公式発表を、ただ無言で見つめていた。


 甲級──それは探索者という存在が到達しうる、一つの極致。


 栄誉であり、同時に呪いでもある称号。


 その高みへ至った者は、もはや常人の尺度では測れぬ世界で生きることになる。


 薫子の胸に去来したのは誇らしさや喜びではなかった。


 むしろ、それは冷たい水底へと引きずり込まれるかのような深く重い不安であった。


 ──あの人はまた一歩、近づいてしまった


 彼女には分かっていた。


 片倉真祐という男が栄誉のために戦う人間ではないことを。


 彼の戦いは常に死と隣り合わせの自己破壊的な儀式に他ならない。


 甲級という称号は更なる危険なダンジョンへ挑むための免罪符でしかないのだ。


 薫子は席を立った。


 迷いはない。


 上司への報告も進行中のプロジェクトも、全てを後回しにする。


 今、彼女が為すべきことは一つしかない。


 片倉の元へ行く。


 そして、無茶はやめろ、無謀は寄せと止める。


 それが叶わぬとしてもせめて一人では行かせない。


 城戸の最期が脳裏に焼き付いて離れない。


 あの虚ろな瞳。


 自ら命を絶つしかなかった男の絶望。


 片倉を彼と同じ道へ進ませてはならない。


 その想いが薫子を突き動かしていた。


 ◆


 片倉の住む社員寮の一室は、相変わらず殺風景だった。


 コンクリートが剥き出しの壁。


 最低限の家具。


 床には空になった栄養補助食品のパックが数個、無造作に転がっている。


 まるで人が生きている痕跡そのものを拒絶しているかのような、乾いた空間だ。


 薫子が訪れた時片倉はベッドに腰掛け、一振りの得物を見つめていた。


 カムド──城戸の魂の欠片。


 桜花征機の技術で調整され、今は片倉の主武装としてこれまで多くのモンスターを切り裂いている。


「……何の用です」


 薫子の気配に気づきながらも、片倉は視線を動かさない。


「すみません、インターホンが壊れてて──鍵も開けっ放しだったので。それと、昇格おめでとうございます」


 薫子は努めて平静な声で言った。


 だが、その言葉がこの部屋の空気にはひどく不釣り合いに響く。


「……そうですか」


 片倉の返答は素っ気ない。


 薫子は一歩、部屋に踏み込んだ。


「次に行く場所は決まっているんですか」


 問いかける声に緊張が走る。


 片倉はゆっくりと顔を上げた。


「八王子城址です」


 その名を片倉はこともなげに口にした。


 ──やっぱり


 薫子の呼吸が一瞬止まった。


 背筋を冷たい汗が伝う。


「……一人で?」


「ええ」


「……無謀です」


 絞り出した声は自分でも驚くほど震えていた。


「甲級指定のダンジョンがどれほど困難か……」


 片倉はふいと視線を窓の外へ移す。


 まるで薫子の言葉など、耳に入っていないかのように。


「死にに行くようなものです」


 薫子が言うが、片倉は「そうかもしれません」と答えるだけだった。


 ◆


 八王子城址。


 それはかつてこの地に栄華を誇った北条氏の、悲劇の終着点だ。


 天正十八年、豊臣秀吉による小田原征伐。


 その圧倒的な軍勢の前にこの山城はわずか一日で陥落した。


 城主、北条氏照。


 彼は小田原城へ詰めており、この地には不在であった。


 だが彼の妻、そして城内に残された兵士、女子供たちは、最後まで抵抗し──そして散った。


 言い伝えによれば落城を悟った者たちは、御主殿の滝にその身を投じ、あるいは互いを刺し違えて自刃したという。


 滝は三日三晩、血で赤く染まったと伝えられる。


 無念。


 絶望。


 裏切り。


 そして、死。


 幾千もの負の想念が、この地の土に、石に、そして空気に深く染み付いた。


 それは長い年月を経ても消えることなく、むしろ澱のように堆積し濃度を増していった。


 そして、ダンジョンという現象が世界を侵食し始めた時。


 この八王子城址は真っ先にその口を開いたのだ。


 怨念が形を成した場所。


 そこはもはやただの史跡ではない。


 亡者たちの巣窟。


 鎧兜に身を包んだ武士の亡霊が、生前の無念を晴らすかのように侵入者を斬り殺す。


 自刃した女たちのすすり泣きが、幻聴となって探索者の精神を蝕む。


 そして何よりも恐ろしいのはこのダンジョンの最奥に潜むとされる存在。


 城主・北条氏照の無念そのものが、強力なモンスターとして現れるという噂。


「主無き城を守り続ける亡霊大将」


 協会に登録されたそのモンスターの討伐記録は、未だかつて一度もない。


 ◆


「知っています」


 片倉は静かに答えた。


「だから行くんです」


 その言葉に薫子は絶句した。


 危険だからこそそこへ向かう──それは自殺と同然ではないか? 


「なぜ……」


 薫子の声が掠れる。


「なぜ、そこまでして死のうとするんですか」


 片倉の目が、ゆっくりと薫子に向けられた。


「死ぬつもりはありません。後一つ──後一つなんですよ」


 後一つ? 


 片倉が何を言っているのか、薫子にはわからない。


「何が後一つなんです?」


「あなたには関係ないことです」


「関係なくありません」


 薫子は一歩も引かなかった。


 彼女は片倉の前に立ち、その虚ろな瞳をまっすぐに見つめる。


「澪」


 その名を聞いた時、片倉の眉がぴくりと動いた。


「片倉さんは、澪の恋人でしたよね。私は澪の友人です。付き合いだけなら、片倉さんと澪より長いんです」


「……」


「だから片倉さんと私は他人ですけれど──他人じゃないんですよ」


 どういう理屈だ、と薫子自身も思う。


 しかし他人じゃないのだ。


 少なくとも、薫子の中ではそうなのだ。


 片倉は何も答えない。


 ただ、その視線から逃れるようにわずかに目を伏せた。


 そんな片倉の心にわずかな波紋が広がったのを薫子は感じ取った。


「あなたを一人で死なせるわけにはいかないんです」


 薫子の声に力がこもる。


 片倉はゆっくりと首を振った。


「……死にますよ」


「一人より二人の方が、生存率は上がります。それはあなた自身が一番よく分かっているはずです」


 論理的な説得。


 だが片倉の心には届かない。


 彼にとって、生存率などという合理的な思考はもはや意味をなさない。


 彼が恐れているのは自分の死ではない。


 自分と共にいる者が死ぬことだ。


「……もう帰ってください」


 これ以上の対話は無意味だという拒絶。


 薫子は唇を噛んだ。


 ──このままでは彼は行ってしまう


 たった一人で、あの絶望の城へ。


 そして二度と帰ってはこないだろう。


 ──何か、彼の心を揺さぶる言葉を


 片倉の閉ざされた心の扉をこじ開ける鍵を。


 薫子の脳裏に城戸の最後の言葉が蘇る。


『俺の腕、押野に預けるぜ。片倉用の武器にでも仕立ててやってくれよ』


 そうだ。


 あれは、城戸が遺した最後の「繋がり」だ。


 薫子は意を決した。


「城戸さんの腕を……カムドを託された者として、言わせてもらいます」


 その言葉に片倉の肩が微かに揺れた。


 薫子は続けた。


「あの人は、あなたに生きてほしかったはずです。自分のようにはなってほしくなかった。だから、あなたにカムドを遺した。その想いを無駄にするつもりですか」


 片倉は黙り込んだ。


 カムドに視線を落とす。


 銀色のナイフが薄暗い部屋の中で鈍い光を放っていた。


 城戸の血と無念が宿る武器。


「あなたを一人で死なせるわけにはいきません」


 薫子は繰り返した。


 その声はもう震えていなかった。


「私も、行きます」


 薫子の揺るがぬ決意を宿したその眼差しに、片倉はかつての仲間たちの面影を見た。


 ──『真裕、無茶しないでよ。私たちもいるんだから』


 澪の心配そうな笑顔。


 ──『真裕君、一人で背負いすぎですよー』


 雪のけだるげながらも優しい声。


 ──『おい片倉、もう少し俺たちを信用しろ』


 と、小堺。


 そして。


 ──『お前は、俺みたいになるな』


 城戸の、自嘲と懇願が混じった最後の眼差し。


 皆同じ目をしていた。


 片倉の胸の奥深く、固く凍りついていた何かがきしりと音を立てた。


 虚無の荒野に一筋の温かい風が吹き抜けたような感覚。


 やがて片倉は重い溜息をついた。


 それは諦めであり、同時に受け入れるための儀式だ。


「……死にますよ」


 もう一度ぽつりと呟く片倉の声色には、今度は拒絶の色はない。


「それでもいいのなら好きにしてください」


 それは紛れもない同行を認める言葉だった。


 薫子はただ黙って頷いた。


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