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第103話「八王子へ」

 ◆


 都心から八王子へと向かう車内はひたすら重苦しい空気に包まれていた。


 ハンドルを握る薫の細い指が時折震えているのは、きっと冬の気配が残る寒さのせいではないだろう。


 助手席で目を閉じる片倉は、眠っているわけではなかった。


 意識を研ぎ澄まし、これから対峙するであろう強大な相手に精神を集中させているのだ。


 やがて車は中央高速に入り、流れる景色は次第にその色合いを変えていく。


 都会の無機質なビル群がミラーの奥へと遠ざかり、その代わりに鉛色の空を突き刺すような山々の稜線が前方に姿を現し始めた。


「片倉さん」


 沈黙を破ったのは薫子だった。


「少しだけ澪のこと、話してもいいですか?」


 片倉の瞼がわずかに動いたが、目は開かれないまま「……ええ」と短い返答を返す。


 薫子は視線を前方に固定したまま、記憶の糸をたぐるように続けた。


「あの子、昔よく言っていました。片倉さんは考えすぎだって。大学のサークルの合宿、覚えてますか?」


 ウィンカーの規則正しい音が車内に響き、車は滑らかに車線変更を行う。


 薫子の声が僅かに熱を孕む──懐かしさという名の微かな温度


「山登りでした」


 片倉がようやく目を開けると、フロントガラスの向こうには、今にも泣き出しそうなほど重い雲を抱えた空が広がっていた。


「ええ。私と澪が参加しているサークルでした。澪が片倉さんの事も誘ったんです。最初はすごく渋っていたらしいですね」


 その言葉に、片倉の脳裏で記憶の扉が開く。


 学生時代の澪。


「真祐も来なよ! 絶対楽しいから!」──あの快活な声。


「結局、根負けして参加しました」


 片倉がぽつりという。


 そうだ、当時の片倉は運動があまり好きではなかった。


 山登りなんて冗談ではなかったが、結局参加することになった。


「そして、遭難しかけた」


「そうでしたね。道に迷って」


 薫子が苦笑する。


 二十人ほどの団体登山で、リーダーの判断ミスから一行は本来のルートを外れてしまったのだ。


 日は急速に落ち、山の気温は体温を容赦なく奪っていく。仲


 間たちがパニックに陥りかける中、片倉は不思議なほど冷静だった。


「あの時、冷静だったのは片倉さんだけでした」


 薫子が言う。


「地図とコンパス、それに星の位置と風向きを読んで、正しい道を探してくれた」


 片倉は黙って、あの時の自分を思い出していた。


 誰もが死の恐怖に駆られる中で、なぜか自分の心だけが凪いでいくような奇妙な感覚。


「澪が言っていましたよ」


 薫子が続ける。


「真祐はいつもスカしてるって」


 信号で停車すると車内が赤い光に染まる。


「でも、それがすごくかっこよく見える時もあるんだ、って」


 その言葉が片倉の胸に鈍い痛みを走らせる。


 澪はいつも、自分の内にある暗い部分を太陽のような明るさで照らそうとしてくれた。


 それが眩しくて、そして、時として重かった。


「私、羨ましかったんです」


 薫子の告白は唐突だった。


 青に変わった信号と共に車が再び動き出す。


「澪とあなたを見ていて。本当にお似合いでしたから」


 その横顔には、羨望、嫉妬、そして諦念といった複雑な感情が浮かんで消える。


 澪と過ごした日々は確かに幸福だったが、その幸福はダンジョンという名の深淵に呑まれ、脆くも消え去ってしまった。


「……八王子まで、あと二十分ほどです」


 薫子が過去を振り払うように事務的な口調で告げた。


 これ以上、死者の思い出を掘り返しても意味はない。


 生者はただ、前に進むしかないのだ。


 ◆


 車は八王子インターを降り、街並みは次第に山の気配を色濃くしていく。


 曲がりくねった細い山道を慎重に進んだ先、ついに二人はその場所に辿り着いた。


 八王子城址ダンジョン。


 苔むした石垣が連なる入口を潜った瞬間、空気が死の匂いを帯びたものに変わった。


 鼻をつく血と鉄の香り。


 石垣の所々にこびりついた黒い染みは、四百年前に流されたおびただしい血が、いまだ乾くことなく怨念となって染み付いている証だ。


「これは……ひどい……」


 薫子が思わず鼻を覆う。


 片倉は無言で前を向き、深く立ち込める霧の中へと歩を進めた。


 地面から湧き上がるように立ち込める白い靄は視界を奪い、五メートル先すら定かではない。


 血か朝露か、ぬるりとした感触の石段を一段、また一段と登っていく。


 カンッ。カンッ。


 霧の向こうから、刀と刀がぶつかり合う、乾いた金属音が響いてくる。


「まだ、戦っているんですね」


「ええ。四百年前に終わったはずの戦いが、ここではまだ続いているんです」


 二の丸へと続く道は半ば崩れ、城壁には無数の刀傷や矢の跡、火縄銃の弾痕が生々しく刻まれている。


 そして、人の形をした黒い焦げ跡がいくつも壁に張り付いていた。


 それは、業火に包まれながら壁にすがりついた者たちの断末魔の姿そのものだった。


 ヒュウヒュウと鳴る風の音に混じり、女の啜り泣きや子供の悲鳴が聞こえる。


「来ます」


 薫子の黒髪が、殺気を感知して意思を持ったように揺らめいた。


 片倉もまた、神刀カムドの柄を強く握る。


 次の瞬間、前方の霧が渦を巻き、その中から異形の者たちが姿を現した。


 錆びついた具足を纏い、刀を構えた甲冑武者の群れ。兜の奥に顔はなく、ただ一対の赤い光だけが、憎悪に爛々と輝いている。


「うおおおおお!」


 亡者たちの雄叫びと共に、重い地響きを立てて突進が始まる。


 それは紛れもなく、質量を持った実体ある亡霊だった。


 片倉はカムドを起動させ、瞬時に形成された銀色の太刀で亡霊武者の胴を横薙ぎに払う。


 だが、真っ二つになったはずの体は倒れず、上半身と下半身が別々のまま動き続ける。


「物理攻撃だけでは、効きが悪いか」


 片倉が舌打ちするのと同時に、薫子の黒髪が鞭のようにしなり、一体の首を絡め取って引き千切った。


 しかし首を失った体は、それでもなお刀を振り回し続ける。


「きりがありませんね!」


 汗を拭う薫子の眼前で、亡霊は次から次へと霧の中から湧き出てくる。


 その数は瞬く間に百を超え、なおも増え続けていた。


「胸の辺りを見てください。微かに光っている」


 片倉が亡霊の群れの動きを冷静に観察しながら叫ぶ。


 確かに亡霊たちの胸部には魂の残滓か怨念の結晶か、青白い光が心臓のように明滅していた。


「そこを!」


 薫子の髪が鋭い槍と化し、一直線に伸びて一体の胸を貫いた。


 青い光が砕け散ると、亡霊は悲鳴もなく霧へと還る。


 核を破壊すれば消滅する──攻略法は見えた。


 しかし、敵の数は多すぎる。


 片倉はカムドを両手剣へと変形させ、その重い一撃で前方の敵を薙ぎ払いながら盾となり、薫子が髪を無数の針に変えて後方から正確に核を狙い撃つ。


 言葉を交わさずとも二人の動きは長年組んできたかのように噛み合い、着実に敵の数を減らしていった。


 そして一時間に及ぶ死闘の末、最後の亡霊が消え去った時、二人は荒い息を整えながら本丸へと続く巨大な門を見上げていた。


 その扉の隙間からは、今まで以上に濃厚な血の匂いが漂ってくる。


「行きましょう」


 片倉の静かな声に頷き、薫子も続く。


 ギィィィ、と断末魔のような軋みをあげて扉が開くと、その先には──血の海が広がっていた。


 赤黒い液体が床一面に淀み、壁や天井にまでおびただしい返り血が飛び散っている。


 巨大な屠殺場さながらの光景の中、着物姿の女子供、老人たちの骸が無数に浮かんでいた。


 苦悶に歪んだその表情は、死してなお安らぎを得られぬ魂の叫びを伝えているようだった。


 この血の海を渡らねば先へは進めない。


 片倉が躊躇なく足を踏み入れると、ぬちゃり、と粘度の高い血が膝までまとわりつく。


 薫子も意を決して続いたその時、血の中から無数の青白い手が伸び、生者を道連れにせんと足首に絡みついてきた。


「埒が明かない!」


 切り払っても無限に伸びてくる手を振りほどき、二人は血飛沫を上げて奥の階段へと走る。


 振り返れば、血の海から上半身を現した無数の亡者たちが怨嗟の目でこちらを見つめていた。


「見えない境界があるんですね」


 亡者が追ってこないことに安堵しつつ、二人は城の内部へと続く廊下を進むと──そこには漆塗りの重厚な扉があった。


 城主の間だ。


 扉の前に立つだけで、中から漏れ出す圧倒的な気配に肌が粟立つ。


 怨念、憤怒、無念。


 あらゆる負の感情が凝縮され、ただ一つの強大な存在となっているのがわかった。


「──北条氏照か」


 片倉が低く呟き、扉を押し開いた。


 広い座敷が広がっており、その奥の一段高い場所に置かれた朱塗りの椅子に一人の武将が座していた。


 豪奢な黒い甲冑に身を包み、兜は被らず、その顔を晒している。


 威厳のある豊かな顎鬚、猛禽を思わせる鋭い眼光。


 生前の威厳をそのままに留めた姿であったが──


 その瞳は虚ろで、生者である二人ではなくもっと遠い過去の残像を見つめているようだった。


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