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第104話「生」

 ◆


 北条氏照がゆっくりと立ち上がる。


 甲冑が軋む音が広間に響いた。


 身の丈は六尺を優に超え、生前の覇気をそのまま纏っているかのような威圧感が部屋を満たしていく。


「我が城に踏み入る愚か者どもよ」


 低く響く声は怨嗟に満ちている。


「この地で流された血の重さを知るがよい」


 城主が腰の太刀を抜く。


 その刀身は妖しく赤黒い光を放っていた。


 血に染まった妖刀。


 無数の魂を喰らってきた呪われし刃だ。


 片倉はカムドを構え直す。


 薫子も黒髪を戦闘態勢へと変化させた。


 次の瞬間、城主の姿が掻き消える。


「速い!」


 薫子が叫ぶと同時に頭上から斬撃が降り注いだ。


 片倉はかろうじてカムドで受け止めるが、その重さに膝が軋む。


 力だけではない。


 刃が触れ合った瞬間、片倉の脳裏に凄まじい映像が流れ込んできた。


 ──燃え盛る城。逃げ惑う女子供。容赦なく斬り殺される老人たち。


 落城の記憶。


 絶望と無念が生々しい感情として片倉の精神を侵食していく。


「がっ……!」


 一瞬の隙を突いて城主の蹴りが片倉の脇腹にめり込む。


 吹き飛ばされた片倉が壁に激突した。


「片倉さん!」


 薫子が援護しようと黒髪を槍のように伸ばすが、城主は軽々とそれを躱す。


 返す刀で薫子の髪を斬り払った。


「くっ……」


 斬られた髪から薫子本体へと精神的な衝撃が伝わる。


 落城の夜の惨劇が薫子の意識に雪崩れ込んできた。


 自刃する武士の妻。


 泣き叫ぶ幼子を抱いたまま滝へ身を投げる母親。


 主君への忠義を貫いて散った者たちの無念。


「あ……ああ……」


 薫子の顔が蒼白になり、膝から崩れ落ちる。


 精神攻撃への耐性が低い彼女にとって、この怨念の奔流は耐え難い苦痛だった。


 城主が薫子へとどめを刺そうと太刀を振り上げる。


 だがその刃は片倉のカムドに阻まれた。


「させるか」


 片倉の声は静かだが、その奥に鋼のような意志が宿っている。


 城主の赤い瞳と片倉の虚ろな瞳が交錯する。


「ほう、まだ立てるか」


 城主が嘲笑うように言う。


「だが無駄だ。我が無念は四百年の時を経てなお消えぬ」


 妖刀が唸りを上げて片倉へ襲いかかる。


 横薙ぎの一閃。


 片倉は身を屈めて躱そうとしたが──


 ブシュッという湿った音と共に、左耳が宙を舞った。


 熱い血が首筋を伝い落ちる。


「ぐっ……」


 激痛に顔を歪めながらも片倉は後退しない。


 むしろ懐へ飛び込む。


 だが城主の反応は人外の速さだった。


 妖刀の切っ先が片倉の左手を捉える。


 小指と薬指が関節から断ち切られ、血飛沫と共に床へ転がった。


「があぁッ!」


 片倉の絶叫が広間に響く。


 左手から噴き出す血が床を赤く染めていく。


 しかし城主は容赦しない。


 返す刀が片倉の右肩を深々と斬り裂いた。


 骨まで達する傷から血が滝のように流れ落ちる。


「片倉さん!」


 薫子が必死に立ち上がろうとするが、精神攻撃の後遺症で体が思うように動かない。


 城主の太刀がさらに片倉を追い詰める。


 右の頬が裂かれ、歯茎が露出する。


 左脇腹に深い刺し傷。


 内臓が傷ついたのか、口から血が溢れ出す。


 もはや片倉の体は満身創痍だった。


 立っているのが不思議なほどの重傷。


 だが──


「はは……ははは……」


 片倉は血を吐きながら笑っていた。


 城主の猛攻を受けながら、なお笑いを止めない。


「何がおかしい」


 城主の声に苛立ちが混じる。


「いや……ただ思い出しただけです」


 片倉は震える声で答える。


「俺は確かに生きているんだと」


 失った指の激痛。


 耳から流れ続ける血。


 全身を蝕む痛みの嵐。


 それらすべてが、虚無に沈んでいた片倉の感覚を呼び覚ましていた。


 痛い。


 苦しい。


 死にそうだ。


 だがそれこそが生きている証拠なのだ。


「ふざけるな!」


 城主の斬撃がさらに激しさを増す。


 だが片倉は倒れない。


 血まみれの体で、なお前へ前へと踏み込んでいく。


 カムドが彼の意志に応えて形を変える。


 失った指の分を補うように、柄が手に吸い付くような形状へと変化した。


「押野さん、大丈夫ですか」


 戦いながら片倉が声をかける。


 その声は掠れていたが、確かな意志が宿っていた。


「は、はい……でも片倉さんの方が……」


 薫子は片倉の凄惨な姿に絶句する。


 全身血だらけ。


 左手からは指が二本失われ、左耳もない。


 だが。


「大丈夫です」


 片倉が血の混じった笑みを浮かべる。


「久しぶりに……生きてる実感がする」


 その言葉と共に、片倉の瞳に失われていた光が宿り始めた。


 虚無の底から這い上がってきた生への執着。


 それは痛みと苦しみの中でこそ輝きを放つ、矛盾に満ちた光だった。

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