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第105話「ひとでなし」

 ◆


 どれほどの時間が経過しただろうか。


 互いの刃が幾度となく交錯し、火花が散り、血が飛び散る。


 片倉の肉体は満身創痍となり、意識も朦朧とし始めていた。


 左手の失われた指からは血が止まらず、裂かれた頬は歯茎を晒し、全身のあちこちから赤黒い液体が滴り落ちている。


 だがその極限の集中の中で、彼は城主の動きにほんの一瞬の隙を見出す。


 城主が大上段から振り下ろした妖刀を、片倉は紙一重で躱した。


 重い刃が床石を砕き、破片が飛び散る。


 その一瞬──城主の体勢が崩れた。


「そこだ!」


 片倉は最後の力を振り絞った。


 カムドが彼の意志に呼応して細身の刺突剣へと変形する。


 銀色の切っ先が、城主の鎧の隙間──脇の下の僅かな隙間へと吸い込まれるように突き立てられた。


「ぐおおおおッ!」


 城主の口から血が噴き出す。


 だがそれは赤い血ではなく、黒い瘴気のような何かだった。


 妖刀が手から滑り落ち、甲高い音を立てて床に転がる。


 城主は貫かれた脇腹を押さえながら、片倉を見据えた。


 その瞳にはもはや憎悪はない。


 むしろ、何か別の感情──満足感にも似た何かが宿っていた。


「見事……だな……」


 城主の声は掠れていた。


「だが……お前も……我と同じ道を……辿るであろう……」


 片倉は答えない。


 ただ黙って刃を更に深く押し込む。


 城主の体が震え、甲冑が軋む音が響いた。


「後ろを……見るがよい……」


 最後の瞬間、城主は確かに片倉の後方を指差した。


 その口元には満足げな、いや、嘲笑うような笑みが浮かんでいる。


 次の瞬間、城主の霊体は黒い霧となって散り始めた。


 甲冑も、太刀も、全てが塵となって崩れ落ちていく。


 四百年の怨念がついに解き放たれたのだ。


 片倉はゆっくりと振り返った。


 薫子の姿を探す。


 だが──


「……なぜ……」


 片倉の声が凍りつく。


 薫子はそこに倒れていた。


 仰向けに横たわり、胸を深々と刀で貫かれている。


 驚愕の表情のまま目を見開き、既に絶命していた。


 黒い髪が血の海に広がり、まるで夜の花が咲いたかのようだ。


 片倉は混乱する。


 いつ? 


 誰に? 


 どうやって? 


 確かに先ほどまで彼女は生きていた。


 精神攻撃でダメージを受けていたが、致命傷ではなかったはずだ。


 それがいつの間にか──


 片倉は薫子の傍に膝をつく。


 刀を確認する。


 それは城主の妖刀ではない。


 もっと細身の、どこにでもあるような太刀だった。


 傷口から判断して、背後から一突きで心臓を貫かれたらしい。


 即死だっただろう。


 片倉は自分の掌を見つめた。


 血に濡れ、指を失い、震えている手。


 戦闘に集中するあまり、薫子の死に全く気づかなかった。


 仲間が殺される瞬間を、またしても見過ごしてしまった。


 いや──


 片倉の脳裏に疑念が浮かぶ。


 本当に気づかなかったのか? 


 それとも、気づいていながら無視したのか? 


 城主との戦いに夢中になるあまり、薫子の危機など眼中になかったのではないか? 


 答えは出ない。


 出したくない。


 片倉は薫子の瞼を閉じてやろうと手を伸ばす。


 だがその手は途中で止まった。


 薫子の亡骸を前にしても、悲しみの感情が湧いてこない。


 涙も出ない。


 ただ、また守れなかったという無力感と──


 目的達成の過程で失われた駒を勘定するような冷たい事実認識だけがあった。


 その自らの感情の欠如に片倉は戦慄する。


 澪が死んだ時は泣いた。


 仲間たちが死んだ時も、悲しみに打ちひしがれた。


 だが今は──


 何も感じない。


 ただ虚無だけがある。


 片倉は立ち上がる。


 全身から血が流れ続けているが、不思議と痛みは薄れていた。


 むしろ、体の奥底から湧き上がってくる何かを感じる。


 まだ足りない。


 もっと強い敵を。


 もっと激しい死闘を。


 そう渇望している自分に気づく。


 戦いの中でしか生を実感できない。


 痛みの中でしか感情を取り戻せない。


 そんな壊れた存在に成り果てていた。


 片倉は血と泥に汚れた自分の両手を見つめる。


 その手はまだ震えていた。


 戦いの興奮の残滓を宿している。


 殺戮への渇望を隠しきれずにいる。


「俺はもう、人間じゃないな」


 その言葉を口にした瞬間──


 世界が変わった。


 ◆


 最初に気づいたのは音の変化だった。


 さっきまで聞こえていた風の音が消えた。


 血が滴る音も、自分の呼吸音も、全てが遠のいていく。


 次に温度が失われた。


 傷口から流れる血の熱さも、冷たい石の床の感触も、何も感じなくなる。


 そして──


 色が消えた。


 片倉の世界から急速に色彩が失われていく。


 薫子の黒髪は灰色に。


 床に広がる血溜まりも濃淡だけの影に。


 鮮やかだった血の色も、天井の朱塗りも、全てが色を失った。


 世界は冷たいモノクロームの濃淡へと変貌した。


 まるで古い映画のフィルムの中に閉じ込められたような、あるいは墨で描かれた水墨画の世界に迷い込んだような──


 片倉は手を見る。


 血に濡れているはずのその手も、ただの灰色の濃淡でしかない。


 痛みすらも色を失い、ただ鈍い感覚だけが残る。


「これは……」


 声を出そうとしたが、それすらも遠い。


 まるで水の中で叫んでいるような、あるいは真空の中で声を上げているような感覚。


 片倉はふらりと歩き出す。


 薫子の亡骸から離れ、城主が消えた場所を通り過ぎる。


 足音は聞こえない。


 ただ、灰色の世界が静かに流れていくだけ。


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