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モノクロームの世界はやがて完全な闇に包まれた。
ふと気づくと片倉はそこにいた。
上下も左右も分からぬ漆黒の空間。
ただ足元だけが確かな感触を伝えている。
見上げれば無数の星々が瞬いていた。
天の川が巨大な川となって流れ、遥か彼方には渦巻く星雲が淡い光を放っている。
ここは宇宙。
あるいは宇宙に似せた、誰も知らない何処か。
片倉はただ独りその中心に佇んでいた。
『よくぞ越えた、我が試練を』
声が響いた。
男の声でも女の声でもない。
老いてもいなければ若くもない。
空間そのものが震え、星々が共鳴するかのような荘厳な響き。
それはかつて片倉の脳裏に直接響いたあの声。
「山を越えよ」と告げた“意思”の声であった。
八王子城址での死闘。
あれが最後の「山」だったのだ。
自分が無意識のうちに数え続けてきた百番目の死線。
それを越えた今、自分は目的を達成したのだと。
『汝の望みを言え。何でも一つだけ叶えよう』
“意思”は静かに告げる。
絶対的な力を持つ者の揺るぎない宣言。
その言葉は抗いようのない響きをもって片倉の魂に直接届いた。
望み。
その言葉を反芻した瞬間、片倉の脳裏に一人の女の笑顔が浮かんだ。
澪。
榊 澪。
太陽のように笑い、自分を暗闇から引きずり出してくれた女。
彼女を蘇らせることができるのか。
あの温かい日々に、もう一度戻れるのか。
一瞬、片倉の心に甘い誘惑がよぎる。
衝動が全身を駆け巡った。
澪に会いたい。
その温もりに触れたい。
だが。
その想いはすぐに別の記憶によって上書きされていく。
走馬灯のように駆け巡る仲間たちの顔。
彼らの最期の表情。
断末魔の叫び。
流された血の熱さ。
その全てが今の片倉真祐という存在を形作っている。
仮に澪だけを蘇らせたとして何になるというのだ。
悲劇は繰り返されるだけではないのか。
この理不尽な世界がある限り、自分のような人間はこれからも生まれ続ける。
仲間を失い、心を壊し、虚無の荒野を彷徨う者たちが。
片倉が本当に断ち切りたかったものは、もはや個人的な喪失感ではなかった。
この悲劇の連鎖そのもの。
その根源。
多くの犠牲の上に立った片倉が願うことはただ一つであった。
「この世界から、ダンジョンをなくせるか?」
その願いに“意思”はしばし沈黙で応えた。
まるで片倉の願いの重さを測るかのように。
あるいは、その決意の純粋さに少しばかり驚いたかのように。
やがて空間に響く声の質が、ゆっくりと変化していく。
荘厳な響きが薄れ、どこか親密で、そして片倉がよく知る女の声へと。
「そんな願いでいいのね。少し意外だけれど」
MAYA。
あるいは協会長。
その悪戯っぽい声が宇宙に響いた。
「いいわよ、マサちゃん。でもそのためには遡らないと駄目ね」
声は続ける。
まるで子供に言い聞かせるように、優しく、そしてどこか楽しげに。
「ほら、因果の関係もあるから。“この世界”はもうマサちゃんをうみ出してくれたのだし、解放してあげましょうか」
解放。
その言葉が、片倉の心に染み渡る。
長い、あまりに長かった苦しみからの解放。
死を求めながらも生きることを強いられた矛盾からの解放。
失い続けるという呪いからの解放。
片倉の体がふわりと宙に浮いた。
まばゆい光が体を優しく包み込んでいく。
それは太陽よりも温かく、月の光よりも穏やかな輝きの様に片倉には思えた。
──澪
意識が薄れていく。
体の輪郭が溶け、闇へと回帰していく。
遠ざかる意識の片隅で片倉は最後に一つの情景を見ていた。
大学のキャンパス。
満開の桜並木の下。
「真裕、こっちこっち!」
手を振る澪の姿があった。
その隣には少し照れたように笑う自分がいる。
風が吹き桜の花びらが舞い散る。
それはまだ何も失っていなかった頃の、幸福な記憶の残像──あるいは、これから始まる新たな世界の始まりであった。
片倉の意識はその美しい光景を最後に、静かに闇へと溶けていった。