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第106話「因果」

 ◆


 モノクロームの世界はやがて完全な闇に包まれた。


 ふと気づくと片倉はそこにいた。


 上下も左右も分からぬ漆黒の空間。


 ただ足元だけが確かな感触を伝えている。


 見上げれば無数の星々が瞬いていた。


 天の川が巨大な川となって流れ、遥か彼方には渦巻く星雲が淡い光を放っている。


 ここは宇宙。


 あるいは宇宙に似せた、誰も知らない何処か。


 片倉はただ独りその中心に佇んでいた。


『よくぞ越えた、我が試練を』


 声が響いた。


 男の声でも女の声でもない。


 老いてもいなければ若くもない。


 空間そのものが震え、星々が共鳴するかのような荘厳な響き。


 それはかつて片倉の脳裏に直接響いたあの声。


「山を越えよ」と告げた“意思”の声であった。


 八王子城址での死闘。


 あれが最後の「山」だったのだ。


 自分が無意識のうちに数え続けてきた百番目の死線。


 それを越えた今、自分は目的を達成したのだと。


『汝の望みを言え。何でも一つだけ叶えよう』


 “意思”は静かに告げる。


 絶対的な力を持つ者の揺るぎない宣言。


 その言葉は抗いようのない響きをもって片倉の魂に直接届いた。


 望み。


 その言葉を反芻した瞬間、片倉の脳裏に一人の女の笑顔が浮かんだ。


 澪。


 榊 澪。


 太陽のように笑い、自分を暗闇から引きずり出してくれた女。


 彼女を蘇らせることができるのか。


 あの温かい日々に、もう一度戻れるのか。


 一瞬、片倉の心に甘い誘惑がよぎる。


 衝動が全身を駆け巡った。


 澪に会いたい。


 その温もりに触れたい。


 だが。


 その想いはすぐに別の記憶によって上書きされていく。


 走馬灯のように駆け巡る仲間たちの顔。


 彼らの最期の表情。


 断末魔の叫び。


 流された血の熱さ。


 その全てが今の片倉真祐という存在を形作っている。


 仮に澪だけを蘇らせたとして何になるというのだ。


 悲劇は繰り返されるだけではないのか。


 この理不尽な世界がある限り、自分のような人間はこれからも生まれ続ける。


 仲間を失い、心を壊し、虚無の荒野を彷徨う者たちが。


 片倉が本当に断ち切りたかったものは、もはや個人的な喪失感ではなかった。


 この悲劇の連鎖そのもの。


 その根源。


 多くの犠牲の上に立った片倉が願うことはただ一つであった。


「この世界から、ダンジョンをなくせるか?」


 その願いに“意思”はしばし沈黙で応えた。


 まるで片倉の願いの重さを測るかのように。


 あるいは、その決意の純粋さに少しばかり驚いたかのように。


 やがて空間に響く声の質が、ゆっくりと変化していく。


 荘厳な響きが薄れ、どこか親密で、そして片倉がよく知る女の声へと。


「そんな願いでいいのね。少し意外だけれど」


 MAYA。


 あるいは協会長。


 その悪戯っぽい声が宇宙に響いた。


「いいわよ、マサちゃん。でもそのためには遡らないと駄目ね」


 声は続ける。


 まるで子供に言い聞かせるように、優しく、そしてどこか楽しげに。


「ほら、因果の関係もあるから。“この世界”はもうマサちゃんをうみ出してくれたのだし、解放してあげましょうか」


 解放。


 その言葉が、片倉の心に染み渡る。


 長い、あまりに長かった苦しみからの解放。


 死を求めながらも生きることを強いられた矛盾からの解放。


 失い続けるという呪いからの解放。


 片倉の体がふわりと宙に浮いた。


 まばゆい光が体を優しく包み込んでいく。


 それは太陽よりも温かく、月の光よりも穏やかな輝きの様に片倉には思えた。


 ──澪


 意識が薄れていく。


 体の輪郭が溶け、闇へと回帰していく。


 遠ざかる意識の片隅で片倉は最後に一つの情景を見ていた。


 大学のキャンパス。


 満開の桜並木の下。


「真裕、こっちこっち!」


 手を振る澪の姿があった。


 その隣には少し照れたように笑う自分がいる。


 風が吹き桜の花びらが舞い散る。


 それはまだ何も失っていなかった頃の、幸福な記憶の残像──あるいは、これから始まる新たな世界の始まりであった。


 片倉の意識はその美しい光景を最後に、静かに闇へと溶けていった。

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