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第259話 雪と温泉・男なら拳で語れ

■その259 雪と温泉・男なら拳で語れ■


 ただ悪戯に時間だけが経過したのとは違って、どこもかしこも長年丁寧に磨き上げられた、重厚な旅館です。そんな旅館の雰囲気を少しでも味わいたくて、主と三鷹みたかさんの片手は仲良く手を繋いで、もう片腕はお風呂セットを抱えて、エレベーターじゃなく階段を使って温泉に向かっていました。階段をいくつもいくつも下がって、長い廊下を歩いて、温泉マークの付いた赤と青の暖簾のれんが見え始めた時、それより手前の位置から、ずいぶんと賑やかな音が聞こえました。その音につられるように、温泉の暖簾の手前で右に曲がって足が止まります。10人程の泊り客が出入り口に集まっていて、その中に見覚えのある後ろ姿が何人か…。そして、口汚くののしり合う声が激しく聞こえました。


「… 佐伯さえき君の声?」


「みたいだな」


 ののしり合う声の一人は、佐伯君みたいです。


「… 三鷹さん」


「俺の後ろに居ろよ」


 三鷹さん、本当は主に部屋の中を見せたくないんですよね。でも、主は気になっちゃっていますからね。繋いだ手を軽く引っ張られた三鷹さんは、小さなため息をついて、出入り口の人込みの中に進みました。数人に道を開けてもらって、一番前に出ると… 目の前には卓球台が3台ほど置いてある娯楽室でしたが、メインの卓球台は折り畳められて隅に追いやられていました。代わりに、メインになっているのは、浴衣姿で殴り合っている二人の高校男子。といっても、浴衣ははだけていて、ほとんどトランクス姿です。


「やっぱり佐伯君。喧嘩なんて、久しぶりじゃない? あ、梅吉兄さんと、お父さんと、近藤先輩と、岩江さん… サク(高橋)さんも居る」


 娯楽室の壁際には、10人程の男の人達が等間隔に立っています。その半数が、身内でした。もう半数は、相手側のお仲間でしょうか? よく見ると、身内と相手側のお友達が交互に立っています。


「クロッキー、終わった?」


「あ、やっぱり桃ちゃんだった。終わったよ~。お風呂から出たら、坂本さんがスキンケアしてくれるって」


 主と三鷹さんが来たのに気が付いて、出入り口の隅で見ていた桃華ももかちゃんと笠原先生が、隣に移動してきました。


「嬉しい~。日焼け止め塗ったけれど、思ったよりいいお天気だったから、雪焼けしちゃってるわよね、絶対! って思っていたから、助かる~」


「滑ってる時は、気にならなかったけどね。坂本さんの鞄の中、いっぱい化粧品入ってたよ~」


「期待しちゃう~」


 なんて、女子トークで盛り上がっている主と桃華ちゃんですけれど、目の前では、佐伯君が裸同然の格好で激しく殴り合っているんですよね。でも、よく見たら、佐伯君はあまりダメージなさそうです。飛んでくる相手の拳も脚も、華麗なステップでスルスル避けています。逆に、相手の方はダメージが大きそうです。腕や脚が上手く動いてないようだし、鼻血も出ていますよ。


「受験生の身のこなしとは、思えないわよね~」


「転校してきた時より、急所への攻撃が的確になっています。関節への攻撃も加わっていますから、最小限の攻撃でとても効率的です。武道家としても、食べて行けるんじゃないでしょうかね」


 楽しそうな声は、いつの間にか桃華ちゃんの隣に移動してきた、大森さんでした。田中さんと、松橋さんもいます。笠原先生の感心した解説に、田中さんは少し呆れて言いました。


「勉強しながら、竹刀の素振りはほぼ毎日していたし、平日は花屋のバイト、剣道部にもたまに出ていましたから。そんなに鈍ってはいないですよ、色々と」


 田中さんの言う通りですね。


「佐伯! テメェ、1人で…」


 佐伯君の相手が腕を大きく振った瞬間、佐伯君はボクサーみたいに体をシュッと縮めて大きく開いた懐に入り込むと、顎を下からガッと鷲掴わしづかみにして、床に叩きつけました。


ダーン!!


ってすごい音がして、すぐに剥き出しのお腹を、佐伯君の足が踏みつけました。


「ズルいって言いてぇのか? 俺1人、なんの面白みもねぇ、くだらねぇ毎日から抜けだして、ズルいってか?」


 佐伯君、怖い顔で聞きながら、足でお腹をグリグリしています。されている男の子は、何とか逃げようとジタバタして…


「佐伯っ!!」


 部屋の周りに立っているお仲間が、佐伯君に襲い掛かろうと動いたんですけれど、修二さん達がそれを邪魔するように立ち塞がりました。


「リンチか? 男らしくねぇなぁ」


 修二さん、嬉しそうですけど、子どもに手を出しちゃ駄目ですよ。バレたら、美和さんに怒られますよ。梅吉さんと、近藤先輩と、岩江さんも、威嚇してます。


「どけよ、チビ!」


 高橋さんが立ち塞がった男の子だけは、構わずに佐伯君に突っ込んで行こうとしました。まぁ、高橋さん、目つきは余り良くないですけど、なんせ童顔で小さいですからねぇ…


「よし、良く吠えた!!」


 片手で高橋さんを薙ぎ払おうとした男の子は、次の瞬間、お腹を思いっきり蹴られて、壁に激突しました。お仲間は、皆、目が点になっちゃいましたよ。


「えー…」


 主役交代です。周りの視線が、一気に高橋さんに集中しました。


「坊主ども、見掛けで判断すると、痛い目に合うって誰も教えてくれなかったか?」


 高橋さん、ニヤッと笑いながら腰を落として拳を構えました。


「な、なんだよ、このガキ」


「残念。ガキじゃねえんだよ」


 すぐ側の男の子が半べそで言った瞬間、高橋さんの脚がススっと動いて、その顔の真ん中にスリッパがめり込みました。男の子、撃沈です。


「サクさん、相変わらず体柔らか~い」


「縦に180度開脚って、いつ見ても凄いわよね!」


 主と桃華ちゃんは、小さく拍手しています。その横で、田中さん達はビックリです。周囲の人達も、ビックリです。


「さて、そろそろ気が済んだかな?」


 止まった空気を破ったのは、梅吉さんでした。


「それとも、1人ずつ佐伯とやり合いたいかい?」


 ザっと、梅吉さんが男の子のお仲間を見渡すと、皆、下を向いてしまいました。


「佐伯君とやり合っていた子、あの子が一番強い子だったみたいよ」


 大森さんが、コソコソっと主に教えてくれました。


「あの子達、佐伯君の昔の仲間だったみたい。グループから急に居なくなって、たまたま会ったら楽しくしてたのが気に食わなかったみたいね。水島先生、何人か見覚え無いですか?」


「ない」


 桃華ちゃんの追加説明に、主は大きく頷きました。という事は、火事で助け出した子が居るんですね?でも三鷹さん、覚えていないんですね。


「お前等、今の自分が嫌なら捨てちまえよ。やり直しはいくらでも出来るぜ」


 大きなため息をついて、佐伯君が言いました。顔つきも声も、いつもぐらいの悪さに戻っています。佐伯君はお腹の上から足を退けると、スっと手を差し伸べました。


「大人もよ、頭が固いヤツばっかじゃねぇよ。教育的指導は、結構痛いけどな」


 差し出した手をがっちり摘まれて、佐伯君はニヤッと笑いながら三鷹さんを見ました。


「あばらの2、3本は折れるの覚悟だぜ」


 男の子を引き上げながら、こそと耳打ちしたつもりでしょうけれど、確り聞こえてますよ。梅吉さん、苦笑いしてますし。


「そうそう。腕の1、2本折れてもいいなら、相手してやるよ?」


 高橋さんが少しだけ暴れたから、羨ましいんですよね? 修二さん。岩江さんも、何だかソワソワしてますよ。


「いえ、結構です~」


 そんな修二さん達を見て、男の子達は頭に昇っていた血が一気に下がったみたいです。そそくさ~と、伸びてるお友達を引きずって、娯楽室から退散してしまいました。


「骨のない奴らだな」


 岩江さん、暴れたかったんですね。


「坂本さんにバレたら、相当怒られますって」


 梅吉さんは苦笑いしながら、卓球台を直し始めました。それにならって、修二さん達も卓球台を直し始めます。出入り口を埋めていた観客は、主達以外サーっといなくなりました。


「先生、アイツらが稽古つけてくれって言ったら、つけてくれるか?」


 浴衣を着なおしながら来た佐伯君が、三鷹さんに聞きました。


「あばらの2、3本、折れてもいい覚悟があるなら」


「だな」


 真顔で答えた三鷹さんに、佐伯君はニカッと笑いました。それは、最近よく見る悪戯小僧の笑みでした。


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