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第292話 心のどこかにあった不安

■その292 心のどこかにあった不安■


 学校の入試のお手伝いを終えた主は、美術室の窓から外を眺めていました。部屋の一番奥、お気に入りの窓を全開にして、雲一つない空を見上げています。試験を終えた解放感いっぱいの受験生達の声を、冷たい風が運んできました。そんな声を聞きながら、上着も羽織らずに


 今頃は桃華ももかちゃんも、あの子達みたいに解放感でいっぱいかな? 私達、高校受験じゃなくて、中学受験だったから… 6年前か。傘のお兄さんを見つけたくて中学受験して、出来るだけ側に居たくて高校に進学したけれど… 三鷹みたかさん、ずっとそばに居てくれたんだよね。


主は、そんな事を考えていました。


「あら、やっぱりここだった」


 そんな主に、美術部の顧問の先生が声をかけます。主を探していたみたいですね。


芳賀はが先生。すみません、卒業制作、まだ終わっていなくて。最後の一筆を、卒業式の日に入れたいんですけれど、いいですか?」


 今日は珍しい事に、イーゼルもキャンパスも、絵の具すら出ていません。


「構いませんよ。貴女はきっとそうしたいだろうと、思っていましたし」


 芳賀先生は、いつもは汚れても構わないラフな格好ですけれど、今日は入試だからかスーツ姿です。


「ありがとうございます。でも、勝手をさせてくれるから居心地が良くって、放れがたいです」


 芳賀先生は授業の時の様に、机の間をぬうように主の隣まで来ました。そして、主と肩を並べて、主がしていたように空を見上げました。


「白川さんは、描きたい欲望が人一倍ありましたからね。今まで色々な人を見て来ましたけれど、貴女が描き出した時の集中力は、本当に素晴らしいもので、そこまで全力で絵を描ける貴女が羨ましいです。もちろん、貴女の生み出す作品も」


「でも、学校には迷惑ばかりです。下校時間は、きちんと守らなきゃダメです」


 言って、主は先生と顔を見合わせて笑いました。


「この3年間、好きに描かせてくださって、本当にありがとうございます」


 主は先生に向き直ると、深々とお辞儀をしました。


「卒業後、今までみたいに集中して描ける所はあるのかしら? お家で描けるの?」


「まだ、分かりません。イーゼルとキャンパスは、ここでしかなかったから。あ、でも、お仕事の絵は家で出来ると思います」


 油絵以外は、お部屋やリビングで描いていますもんね。


「そう… なら、貴女が良ければなんだけれど、この学校で特別非常勤講師として働かないかしら?」


 主、目が点です。僕も、心情的に目が点です。


「え… あの、それは…」


「特別非常勤講師はね、教員免許が要らないのよ。都道府県の教育委員会に届け出を出せばできる非常勤の講師なの。この制度はね、専門分野を持っていて活躍している地域の人や社会人を学校に迎え入れて、学校教育の多様化を推進することが狙いなの。   

 白川さん、油絵で賞を3つもとったでしょう? しかも、夏のコンテストでは優秀賞! 出展するだけでも名誉なコンテストだったのに、優秀賞! もう、講師雇用でも文句ないわ! でも、特定の教科しか教えることが出来ないし、時給も高くないし、勤務期間は1年以内なんだけれど、まぁ、勤務期間についてはその1年のうちにその上の特別免許状を考えればいいし。もちろん、受持ち教科は『美術』の油絵よ。どうかしら?」


 先生は、最初は興奮しながら説明をしていましたけれど、最後は不安そうに主を見ていました。


「私が… 先生ですか?」


 主、美術の先生ですよ。


「そうよ。今まで通り、この美術室で絵を描いていいのよ」


 ビックリしたままの主の手を、先生は優しく握ります。


「今まで通り、描けるんですか?」


 微かに震えている小さな手を、先生はギュッと握ってくれました。


「そうよ。今まで通り、描いていいのよ」


 ポロ… っと、主の焦げ茶色の瞳から、大きな涙が零れました。ポロポロポロポロ… 主自身もビックリするぐらい、涙が零れました。


「私… 涙?」


「心のどこかで、不安だったのね。進路、色々あったものね。

 ここなら、水島先生達も居るから、安心でしょう? 水島先生も、ね」


 芳賀先生がドアの方を振り返ると、そこには心配そうに立っている三鷹さんが居ました。三鷹さんは芳賀先生に手招きされると、机にあたらないように慎重に足を進めました。


「実はね、学校内の手続きや教育委員会への届け出は済ませてあるの。貴女のOKを貰うだけだったのだけど、なかなかタイミングがつかめなくて。ギリギリになっちゃって、ごめんなさいね。

 4月からも、よろしくね」


 芳賀先生は主にウィンクをして、三鷹さんと交代しました。


桜雨おうめ…」


 桜色のほっぺを濡らす涙を、骨ばった指が拭います。優しく優しく、傷つけない様にゆっくりと…


「ここで今まで通り、絵を描いていいって。私、ここで描けるって」


 優しくほっぺを撫でる大きな手に、白く小さな手を重ねて、主は涙で濡れた瞳で三鷹さんを見上げました。


「ああ。俺も、ここで絵を描く桜雨が見れるから嬉しい」


「なるべく、下校時間は守ります」


 三鷹さんがニコッと笑ってくれたから、主もつられるように微笑みました。


「いたいたいたー」


「先輩、デートしましょう! デート!!」


 そこに、学ランの生徒と、ブレザーの生徒がバタバタと駆け込んできました。今朝、受付で主にデートの申し込みをしてきた受験生です。


「お前等、ここは立ち入り禁止だって」


「頼むから、早く帰って。仕事が終わらないんだから」


 その後を、梅吉うめよしさんと小暮先生が追いかけて来ました。三鷹さん、サっと主を自分の背中に隠しました。


「うわー、今朝の怖いセンセーじゃん…」


「先生、俺、そこに居る先輩とお話ししたいんですよ。ちょっとどいてもらえます?」


 口では頑張っていますけど、腰が引けていますよ。ほら、そんなへっぴり腰だから、机にぶつかった。でも、まぁ… 三鷹さんに向かって行くのは、感心しちゃいます。


「やめといた方が、身のためだよ~」


 小暮先生は、口先だけで止める気はないみたいです。ドアにもたれ掛かって、静観しています。


「あのね、その子にデートの申し込みをしたいなら…」


 梅吉さんが2人の襟元を掴んだ時でした。


「桜雨、今度の日曜日にデートしよう」


 三鷹さんがクルっと後ろを向いて、ハンカチでお顔を拭いていた主に言いました。それは、諦めの悪い2人の受験生の動きを止めるにはとても効果的で、オマケで梅吉さんの口元がワナワナして、次の瞬間に発せられた一喝は、窓ガラスを震えさせるほどでした。


「三鷹!!」





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