■その295 初デート・水族館■
2月末の日曜日のお昼前。空いている電車の椅子に寄り添って座っている主と
主が目を覚ましたのは、降りるはずだった駅を3つほど過ぎてから。慌てて三鷹さんを起こして、次の駅で降りて、折り返そうと乗った電車は信号トラブルで15分ほど止まってしまって… 水族館のチケットを買ったのは、予定より1時間も過ぎた頃でした。多くの人がお昼でレストランや飲食コナーに入っているのか、水族館の敷地には人がまばらです。水族館のゲート横で入場チケットを差し出しながら、三鷹さんは小さなため息を漏らしました。
少し、元気もなさそうです。
「三鷹さん」
主はニコッと微笑んで、三鷹さんの空いている左手を握ります。
「今なら、ゆっくり観れそうだね?」
2人分のチケットを三鷹さんに任せて、主は繋いだ手を引っ張って歩きだしました。三鷹さんは珍しく自分の手を引いて、前を歩く主の薄くいれた紅茶色の髪を、そこに揺れる鬼灯の飾りを見て、ほんのちょっと口元を緩めました。
上着をロッカーに預けて、ゲートを抜けます。3人並んで歩けるぐらいの薄暗い廊下を少し歩くと、開かれた大きな空間に出ました。廊下より暗い空間は、高~い天井に星を思わせる微かな光。正面に青くキラキラ輝く大きな水槽。その中を自由に泳ぐ魚達。大きさも色も形も全く違う魚達が、1つの水槽で優雅に泳ぐ姿に、主は言葉も時間も忘れて見いっています。
「先輩、可愛らしいお口が、開いてますよ」
不意に横から肩をポンと軽く叩かれて、主は跳ね上がる程ビックリしました。大きな声は、何とか我慢しました。
「ごめんなさい、そんなに驚くとは思わなくって」
声をかけた人も、主の驚きっぷりにビックリです。
「… えっと、ごめんなさい。
水槽の明かりで見るその人に、主は全く心当たりがないようです。
が…
「先輩、ひどいなぁ。入試でお世話になった、
あ、入試の受付で主にデートの申し込みした、ブレザーの中学生ですよ。
もともと大人っぽい顔立ちですけれど、私服だとさらに年上の雰囲気になって、分からなかったですね。
「入試? … ごめんなさい。受験生、たくさんいたから覚えていなくって」
そうでした。主は、三鷹さんしか見えてないですもんね。初めてあった人にデートに誘われるのだって、珍しいことじゃないですしね。
「あららら、俺、そんなに影うすいです?」
「あ-、マミが一緒なのに、誠也またナンパしてるぅ~」
残念そうな小浜君。主が思い出そうとしていると、後ろから女の子の非難の声がしました。
「マミの方が可愛いのに、こんなブ… スじゃない」
その女の子は主の前に回り込むと、ビックリして付け睫とマスカラで大きくした目を、さらに大きくしました。お化粧バッチリのお顔に、クルクル巻いた髪の毛、ミニスカートの良く似合う長い脚。主より頭1つ分背の高いその子は、主のお顔をマジマジと見ます。
「あ、マミ、この人知ってる。ねぇアナタ、絵のコンクールで優秀賞取った人でしょう? あの、夏のメチャクチャレベル高いやつ」
「そんな事も、あったかな」
主は答えながら、大森さんを思い出していました。
「先輩、コンクールの賞なんて、すっ…」
「
小浜君が主の手をとろうと近づいた時でした。後ろから伸びてきた腕が、洋服の襟を確り掴んで後ろにポイ! と、投げられました。
「外してて、悪かった。触られなかったか? 怪我は?」
主は心配そうに肩や背中を優しく払う三鷹さんと、投げられて尻餅をついた小浜君を交互に見て、肩をポンとされた事は黙ってようと思いました。
「大丈夫。何もされてないよ」
三鷹さん、安堵のため息。
「で、何の用だ?」
主に変わりがないのを確認して、三鷹さんは小浜君を睨み付けました。
「先輩を見つけたから、挨拶しただけでしよ」
「誠也、カッコ悪ぅ~」
女の子が君を指差して笑います。小浜君は不機嫌な顔で洋服の埃を払いながら立ち上がると、反論しようと口を開けました。
「どうかされましたか?」
けれど、駆けつけた警備員さんと水族館の係員さんに阻まれます。
「あ、大丈夫です。すみません、お騒がせしちゃって」
すかさず主が、回りの人達に頭を下げました。いつの間にか、注目の的になっていました。混んでいないと言っても、そこそこ人はいますからね。警備員さんと係員さんが持ち場に戻る頃には、周りのお客さんもお魚に視線を戻していました。
「先輩、こんな所で会うなんて、運命じゃないですか?」
「すごい偶然だね」
大きな水槽に向き直った主に、小浜君は懲りずに声をかけます。
けれど、主は一回だけ小浜君にニコッと答えて、すぐに隣の三鷹さんに体ごと向き直りました。
「三鷹さん、お買い物? もう、お土産買ったの?」
それは、気が早すぎでしょう、主。三鷹さんの手には、色々な魚の絵が全体的にプリントされた、少し大きめの紙袋が下がっています。
「
そう言いながら、三鷹さんは紙袋から1冊のノートと、ノート状に綴じられた画用紙、色鉛筆とパステルクレヨンを取り出しました。
「スケッチできそうなものが、これぐらいしかなったんだが…」
「描いていいの?」
主の気に入るか心配だった三鷹さんは、お顔を輝かせて喜んでいる主を見て、ホッとしたようです。
「もちろんだ」
「三鷹さん、ありがとう!」
主は勢いよく三鷹さんに抱き着いて、すぐにノートと色鉛筆でお魚のスケッチを始めました。三鷹さん、久しぶりの主の感触を堪能することが出来なくて少し残念… けれど、瞳をキラキラ輝かせながらスケッチをする主を見て、とっても満足でした。そして、小浜君と主の間に移動することも忘れません。
「先輩、本当に俺の事を覚えてくれてないんですか? 今まで、そんな女の子、居なかったんだけれどな」
残念でした、小浜君。主をそこらへんの女の子と一緒にしちゃ、駄目ですよ。主は基本、
すっかりモテ男君としての自信を無くした小浜君は、ガックリと肩を落としています。
「誠也~、奥に進もうよ。マミ、次の魚、見たい」
そんな小浜君の手を握って、女の子が甘えるような声で言いました。
「せっかくだからさ、先輩と一緒に回らない?」
「マミとデートしてるのに?」
拗ねたような怒ったような女の子の声に、小浜君の脱力は増します。
「デートじゃないだろう?」
「デートだもん!!」
痴話喧嘩ですか?ちょっと声のボリュームが大きくなってきましたよ。また、皆さんに注目されちゃいますよ。
「後30分はかかるぞ」
三鷹さんのボソッとした呟きが、そんな2人の口を止めました。視線は真っすぐ、水槽で泳ぐお魚たちを見ています。
「そんなに?」
女の子が聞くと、三鷹さんは視線をズラスことなく大きく頷きます。小浜君と女の子が、そぉ… っと三鷹さんの向こう側を覗きます。そこには、ちょっと調子のズレた鼻歌を歌いながら、とっても楽しそうにノートにスケッチしている主がいました。