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第296話 初デート・人魚姫の海

■その296 初デート・人魚姫の海■


 ゲートを抜けてすぐの、開かれた大きな空間。暗い空間に、高~い天井に星を思わせる微かな光。正面に青くキラキラ輝く大きな水槽。その中を自由に泳ぐ魚達をスケッチしながら、主も自分が一匹の魚になった気分でした。大きな魚を描いている時は、どこまでもどこまでも力強く泳いで、小さな魚を描いている時は、岩の影で仲間と戯れながら…。


「海の底から見た空は、どんなだろう?」


 ふと、主は思いました。思って、水槽のガラスギリギリにしゃがみこんで、上を見上げます。まとまった泡の白と水の青が、ライトに照らされてキラキラしています。ここは、作られた海です。

 画用紙の白に、ク-ピクレヨンや色鉛筆で色を重ねていきます。

作られた海が、紙の中に切り取られていきます。


「人魚姫がお魚と遊びながらみていた空は、どんなだったんだろう?」


 幼い頃、繰り返しみていた絵本には、海から見た空の挿し絵はありませんでした。目の前の水槽のように、様々な魚と人魚姫が戯れ、初めて海の上で見た空は嵐… 手元の画用紙は、絵本の挿し絵と違うものになっています。


「渡り鳥の飛ぶ青い空も、夕日が溶け込む茜色の空も、嵐の黒い空も、海から見たら宝石のようにキラキラしてるのかなぁ…」


 主が見つめる水槽の中、小さなお魚の群れの中に、金色の髪の人魚姫が現れました。人魚姫は小さなお魚と戯れながら、作られた海の中を優雅に泳ぎます。


「全然違うものなんだろうけれど、海も空も似ているなぁ… 海と空が溶け合ったら、大地はどこにいくんだろう?」


 主の目の前、作られた海が緩く渦を巻き始めます。


「人魚姫の金の髪は、夕日に照らされた麦の穂みたい… そうか、海と空が解け合ったから、人魚姫が生まれたんだね」


 画用紙に切り取られた海も、緩く渦を巻き始めます。


「人魚姫が泳いでた海は、空気の変わりに水がまとわりついて、こんな感じにフワフワしたりクルクルしたり…」


 クルクルクルクル… 作られた海と、切り取られた海の渦にのまれて、主の意識は深海の底へと落ちていきました。


人魚姫が泡になる時、こんな感じだったのかなぁ…

王子様への気持ちも、海に溶けちゃったのかなぁ…



 目が覚めると、暗い中にまばらに小さな星が見えます。


「星座は、分からないな…」


 見えるのが何座のどの星なのか、目覚めたばかりの主にはさっぱり分かりません。


「気分は?」


 優しい三鷹みたかさんの声が聞こえて、だんだんと主の意識がハッキリしてきました。星だと思ったのは、星に見せ掛けた天井のライトで、ここは水族館で… 主はベッドよりは固い何かに寝かせられて、足元が少し上がっていることに気がつきました。


「ごめんなさい~。やっちゃった」


 主、お魚のスケッチに夢中になりすぎて、脳貧血を起こしました。

学校でも、よくやってますよね。油絵を描き終わると、疲労と空腹で貧血というか、そのまま深~く眠っちゃいますよね。今日はお昼はまだ食べていないし、寝不足もあって、集中時間が短くても貧血になっちゃったみたいですね。


「かまわない。想定内だ」


 そうですよね。集中して観ていた主に描く物を渡しちゃったんですから、こうなる確率が高い事ぐらい想像に難くないですよね。


 視界の隅に、さっきまで夢中でスケッチをしていた水槽が見えました。

寝かされているのが、ソファだという事も分かりました。でも、なんで三鷹さんの声が足元からするのかな?と、不思議に思った主でしたが、頭を少し上げて見て分かりました。脳貧血の対応で、三鷹さんの膝に主の足元が乗っています。これで、頭に血がしっかり流れるようにしてくれていたんですね。


「学校に行って、描くか?」


 主がモゾモゾ動き出したので、三鷹さんが聞きながら手を貸してくれました。ちゃんと、足は床に下ろしました。


「まだ、三鷹さんとお魚を見たいな。描くのは、明日でいいし」


 … 今の今まで三鷹さんの存在を忘れて、スケッチに夢中になっていましたけれどね。


「そうか。ここで、もう少し描くか?」


「ううん、ここはもういいかな。奥に進みたいな」


 主は三鷹さんからノート状になった画用紙を受け取って、ペラペラ捲りながら答えます。十数ページあるそれは、半分は色がついていました。


「人魚姫?」


 その中の1ページに、三鷹さんが目を止めました。


「描いているうちに、人形姫のお話を思い出したの。ねぇ… 三鷹さん、人魚姫の王子様への気持ちは、体が泡になって消えた時に、どこに行っちゃったかな? 私が人魚姫だったら…」


「さぁな」


 スケッチの人魚姫を見つめながら、主が聞きました。三鷹さんは主の話を最後まで聞かないで、その筋張った指で主の顎をつまんで…


カラン…


 それは一瞬でした。主の唇に、微かに柔らかくて温かなものが触れました。すぐに、小さくて丸くて硬い物が口の中に押し込まれます。


「… イチゴ」


 それは、甘酸っぱいイチゴのキャンディでした。


「昼の食事まで、それをエネルギー源にしろ」


「は… い」


 三鷹さんは立ち上がると、主に大きな手を差し伸べてくれました。


桜雨おうめが人魚姫なら、俺は人魚姫が陸に上がって来るのを待っていない。海に潜って探し出す」


「うん」


 主は嬉しそうにその手を取って、立ち上がりました。


 主、お部屋が暗くて良かったですね。手を繋いで大きな水槽の横を通る時、お首まで真っ赤なのが見えましたよ。


 そして三鷹さん… 今のは完全にアウト!です。





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